五葉城
(ごようじょう)

                新城市富岡        


▲ 五葉城の主郭跡。五葉城は西郷氏の出城のひとつに数えられており、
隣接する高城砦とは機能的に一体化したひとつの城と考えられている。

三遠国境の要

 五葉城の歴史に関しては、その詳細は伝えられておらず、崇山・中山を領した西郷氏の支城のひとつであったと見られている程度である。
 新城市によって立てられた現地説明板には築城形式から南北朝時代の山城と考えられるとある。たしかに、この城の南北150m前後の位置の山上にも砦跡(出丸、高城砦)があり、南北朝期の山城の特徴である尾根続きの地形を利用した一つの城郭として見ることはできよう。しかし残念ながら具体的な城主の名などは伝えられていない。
 郷土資料等には永禄四年(1561)に今川勢によって野田城(新城市)を追われた菅沼定盈が親戚関係にある西郷氏を頼り、高城に砦を築いて立て籠もったとある。この高城の所在を古与宇(こよう)または五葉としており、この城の至近の位置にある高城砦のことと思われるが、この城跡もその際に利用されたものと思われる。
 この年、西郷氏は居城の五本松城を今川勢に襲われて当主正勝、嫡男元正を失い、滅亡の危機に瀕したが次男清員(西川城)の働きでそれを乗り越えている。
 翌、永禄五年(1562)、菅沼定盈は野田城を奪回して当地を去ったが、西郷清員が敵地の押えとして古要(こよう)に城を築いたと言われている。
 「こよう」とはこの辺りの呼び名であったようで、後に「五葉」となったのであろう。ともかく、定盈の去った後もこの城が今川方に対する重要拠点として維持されたことを意味している。
 現在、城址に見られる土塁や堀などの遺構はこの当時のものであろうか。地理的には三河・遠江の交通路となる宇利峠と本坂峠の中間に位置しており、まさに境目の要の城であったといえる。
 永禄十一年(1568)、徳川家康は遠江に進出し、今川氏は滅びた。
 五葉城の役目もこれで終わったことになるが、元亀(1570-73)に入ると東三河は武田氏の攻撃にさらされることになり、引き続き西郷氏によって維持されたものと思われる。

▲ 城址付近から北西方向を展望。遠く本宮山が見える。
 ▲ 車両進入禁止のゲート。これより先は徒歩で城址を目指す。
▲ 城址までこのような林道が続いている。ゲートから約1時間のハイキングとなる。

▲ 左側が林道。右側が主郭への入口。

▲ 主郭へ至る道。

▲ 主郭南側の虎口跡。

▲ 主郭跡から至近の高城砦を望見。

▲ 主郭跡に建てられている説明板。南北朝時代の山城と見られるとある。

▲ 五葉城の北側山麓に築造された大原調整池。この池は城名にちなんで「五葉湖」と呼ばれている。

▲ 五葉湖からは五葉城の出丸や高城砦が見える。送電鉄塔の右の山が出丸であり、その左奥に高城砦の山頂が見える。
----備考----
訪問年月日 2011年7月15日
主要参考資料 「西郷氏興亡全史」
 ↑  「中部地方の中世城館・愛知」他

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