波瀬城
(はぜじょう)

                   田原市波瀬町            


▲ 波瀬城跡には方形をした一段高くなった部分があり、殿屋敷と呼ばれている。

湾岸の城館

 波瀬城の創築については応仁年間(1467-69)に将軍足利義政の命によって渡辺豊前守守弘がこの地に築城したとされている(「日本城郭全集」)。
 しかし、城主となった渡辺守弘なる武士の出自も分からなければ、将軍義政がここ東三河に築城を命じたということも腑に落ちない。
 将軍義政は銀閣寺など東山文化を開花させたことで知られるが、政策や政治からは逃避して顧みることもなかった。そんな義政が見ず知らずの土地に城を築かせるなど考えられないことである。あえて言うならば、応仁の乱に際して義政を担ぐことに成功した細川勝元、もしくはその筋の者の命であったといえるかもしれない。
 また、その命を受けた渡辺氏も後に徳川家臣となった三河渡辺氏の一類であるのか、全く別の系譜を持つ渡辺氏であるのかさえも分からない。
 ただ、伝えられていることは文明年間(1469-87)に守弘の子孫弥市郎が今川氏に攻められ、紀州家に仕えて彦太夫と称するようになったということである。この辺の事情も釈然としないが、どうにも仕方がない。
 だが、ここがその城跡として伝えられ、現在に至っていることは事実なのである。残念ながら城郭遺構として明確なものは見当たらないが、立地としては三河湾を見渡す絶好の位置にあり、水軍に関わる城砦であったであろうことが想像できよう。
 ▲ 波瀬城址はこの雷電神社とその周辺とされている。
▲ 神社の裏側はこのように階段状になっているが、城郭遺構であるのかは分からない。

▲ これも神社裏側の様子。わずかな起伏が見られるが、城に関わるものであるかは分からない。
----備考----
画像の撮影時期*2010/01

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