本宮山城
(ほんぐうさんじょう)

        愛知県豊川市上長山町東水神平    


▲ 本宮山城は豊川の河岸段丘端上に築かれた要害であったと
思われるが、その歴史に関しては不明な点の多い城跡である。
(写真・堀跡に建つ稲荷社)

戦国争奪の古砦跡

 本宮山城、または本宮長山城と呼ばれるこの城址は規模不明、時期不詳、城主不詳という分らないずくめの城跡である。それでも赤い稲荷社の裏には堀跡の一部が厳然として残っている。
 かつて国道151号線の拡幅工事の際には三本の堀が発見され、そのうち一本は東部小学校の校庭まで伸びていることが確認されたという。その際に堀の中からおろし皿、内耳鍋類、天目茶碗の破片などが出土したと言われ、室町末期の城跡であろうと推測されている。また、この時に確認された堀は箱堀から薬研堀へ改修された跡が認められたという。
 地形的には南は豊川、東と北は長良女川による浸食谷が天然の堀を形成しているように考えられ、要害性をもったところであることがわかる。この南・東・北の川と谷に囲われた範囲を城域と考えると、わずかではあるが小学校とその北側が最高所と思われ、その辺りが主郭であったと推定することもできよう。
 戦国時代、この辺りは織田対今川、徳川(松平)対今川、今川没落後は徳川対武田のぶつかり合ったところである。そしてそのどちらかに与して戦わざるを得なかった土地の土豪、地侍たちが懸命に生きたところでもある。要害と思われる場所には城砦が築かれ、時の支配者たちはそれを奪い、兵を駐留させ、また改修、強化しては次の合戦に備えた。堀の改修した跡が認められたというのもそうした支配者たちの入れ替りがあったことを物語っているのではないだろうか。

▲ 稲荷社の裏に残る堀跡。 
▲ 堀跡の長さは10数mほどで、その先は崖となっている。

▲ 稲荷社の隅に苔むす無縫塔。
----備考----
訪問年月日 2012年7月29日
主要参考資料 「一宮町誌」
「愛知県中世城館跡報告書」他

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