渡辺崋山池ノ原幽居跡
(わたなべかざん いけのはらゆうきょあと)

                   田原市田原町中小路           


▲ 昭和30年5月に銅像建立とともに復元された渡辺崋山の幽居。

忠義の人、渡辺崋山

 三河国田原藩の家老渡辺定静(さだやす)、というより渡辺崋山と云ったほうがわかりやすい。通称は登(のぼり)、崋山は雅号である。
 渡辺崋山は画家として有名であり、西洋画の立体感や遠近の手法を東洋画に取り入れて優れた作品を今日に残している。
 無論、崋山はまぎれもない田原藩士であり主君三宅氏の忠臣であった。画は天分の才に恵まれていたとはいえ家計を援けるためにはじめたものであり、決して武士としての生き方をないがしろにしていたわけではない。
 天保三年(1832)、四十歳の時に家老となった。江戸麹町の三宅家上屋敷詰めの、いわゆる江戸家老である。もともと崋山は江戸生まれの江戸育ちで八歳の頃から伽役として屋敷勤めに出ていた。江戸に居たことで画師谷文晁、儒学者松崎慊堂、蘭学者高野長英といった人々と親しく交わることができ、崋山の資質も大きく開花したといえよう。

▲ 渡辺崋山の像。
 さて家老となった崋山は江戸にありながらも藩地藩民のための施策に奔走した。助郷の免除や海苔などの農業以外の産業の導入、はたまた異国船の来襲に備える海防のための軍制改革などまさに寸暇を惜しんでの働きぶりであったという。
 特筆すべきは飢饉に備えて穀物倉庫を建設したことであろう。天保という時代は全国的に飢饉が発生していた時期で、田原藩とていつ凶作に見舞われぬとも限らないのである。崋山は藩主三宅康直に、藩民の困窮に備える倉の設置を具申したのである。崋山はこの倉を「報民倉」と名付けた。規模は三十坪の倉二棟であったという。
 この倉が出来た翌年、天保七年は田原藩領が大凶作に見舞われた。しかし藩内からは餓死者を出さずに済んだのであった。
 天保十年、幕府の鎖国政策を批判した「慎機論」を著す。
 五月、老中水野忠邦は目付鳥居耀蔵の讒訴に乗せられて幕政を批判する蘭学者の摘発を許した。いわゆる「蛮社の獄」である。蘭学や海外事情の研究会である「尚歯会」がその的とされ、会の中心者である崋山と高野長英、小関三英らが投獄された。
 崋山の師松崎慊堂は老身をおして赦免の建白書を幕府に出し、崋山の門弟椿椿山らも赦免のために奔走した。その甲斐あってか、十二月に国許蟄居となり出獄した。
 翌年明け早々に田原へ護送され二月十六日にここ池ノ原に入った。母と妻子を引連れてのことであった。
 蟄居生活は当然のことながら経済的にも厳しいもので、門弟の福田半香は他の門弟らとともに崋山の画を売り、その金を田原の崋山のもとへ送ろうと画会を開いた。
 ところが世評とは身勝手なもので、
「罪人が金儲けなどしてよいものか。殿が幕府よりお咎めを受けたら何とする」
 などと騒ぎ立てる有様であった。
 天保十二年十月十一日、崋山は主君へ災いの及ぶことを断つかの如く、自決して果てた。享年四十九歳。遺書のひとつに、
「不忠不孝渡邉登」
 と大書されたものが残されている。罪人に墓石は認められていないからこれが墓石代わりだというのだ。
 死してなお、忠義を通そうとする崋山の武士としての思いがひしと伝わってくる最期といえようか。

 ▲ 池ノ原公園内には崋山の生涯を紹介したレリーフが点在している。これは「報民倉」建設のレリーフである。

▲ 東郷平八郎揮毫の「崋山先生玉砕之跡」の碑。その右側は「不忠不孝渡邉登」の石碑である。
----備考----
画像の撮影時期*2007/02

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