賀茂神社
(かもじんじゃ)

                   豊橋市賀茂町          


▲ 賀茂神社の参道。鬱蒼と生い茂る森の向こうに拝殿がある。

いざ、遠江へ

 永禄十一年(1568)十二月、徳川家康は吉田城(豊橋市)に入り、軍勢を集結させた。
 すでに甲斐の武田信玄の軍勢は駿河攻略のために駿府を目指して進撃を始めていた。
 かつて駿・遠・三の三国を支配した戦国大名今川氏もこの頃には瓦解寸前の状況にあった。このままでは遠江も瞬く間に信玄の支配するところとなってしまうだろう。そうなると平定したばかりの三河の支配も危ういものとなってしまう。躊躇する余裕はなかった。家康は直ちに遠江討入りの下知を飛ばしたのであった。
 吉田城で家康は軍勢を二手に分けた。一手は酒井忠次に任せて吉美郷(静岡県湖西市)へ進ませ、今川方の境目城宇津山城を攻略して浜名湖周辺を制圧させようとした。そして家康は本軍を率いて豊川沿いに北へ向かった。
 旧記には牛久保から加茂、中宇利を経て小幡(小畑)に着陣とある。この加茂という土地が現在の賀茂町のことである。
 加茂に至ったところで家康は軍勢をしばし止め、ここ賀茂神社に参拝して武運長久を祈願したと伝えられている。
 この賀茂神社は天平元年(729)に京都の賀茂別雷神社より勧請して創建されたとされているる神紋は「葵」で、徳川家とも何らかの縁があろうかと思われるが、無論賀茂神社の「葵」紋の方が古いことは云うまでもない。神社にはこの時、家康が奉納したという「大幡(おおはた)」が伝わっており、例年の大祭である「葵祭り」ではこの旗が立てられて大幡神事が行われている。
 参拝を済ませた家康は再び軍勢を進め、陣座峠を越えて遠江に踏み入った。
 その後、奥山を経て井伊谷(浜松市北区引佐町)に出、十八日には引馬城(浜松市中区)へ入城した。

▲ 「潜みの大楠」と称され、樹齢千年以上といわれる御神木。元亀四年(1573)、野田城救援に出撃した家康は反対に武田勢に追われる身となり、逃げる際にこの楠の空洞に隠れて危機を脱したと伝えられている。
 ▲ 賀茂神社参道入口に掛かる「賀茂たいこ橋」。付近は菖蒲園として多くの観光客で賑わう名所でもある。
▲ 参道を抜けると正面が賀茂神社の拝殿となっている。

▲ 参道入口に掲げられている境内図。
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画像の撮影時期*2008/04

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