新城城
(かわじりじょう)

                   新城市作手高里           


▲ 川尻城は作手の集落の北端に位置している。正面中央の丘
が城址で、本丸跡からは古宮城や亀山城の城跡が望見できる。

奥平の家を
        ここから興すのだ

 東三河における奥平氏は菅沼氏と並んで大きく発展した国人で、後に譜代中津藩十万石の大名となった。
 ここ川尻城はその奥平氏が戦国時代を生き抜くために築いた最初の城である。
 三河奥平氏の初代は貞俊とされている。貞俊の生まれたのは上野国奥平邑(群馬県多野郡吉井町下奥平)で、貞和五年(1349)の南北朝時代であった。
 貞俊の先祖は、系図をたどれば村上天皇第七皇子具平親王の十一代目赤松則景が源頼朝の挙兵に応じて安芸国から参陣、その子氏行は上野国甘楽郡司となって奥平邑に居住した。姓も土地の名をとって奥平を称したことにはじまる。つまり奥平氏発祥の地は関東なのである。
 時代が移り、氏行から六代目定政は一貫して新田義貞に随従して天皇親政のために活躍、その後も南朝の皇子に供奉し、終には九州の戦場に倒れた。定政の嫡子定家が家督を継いだが、定家もまた後南朝の臣であり続けようとした。しかし足利政権が磐石となるにしたがい、一族も一枚岩たりえず、同族内における争いもあったであろうことは想像に難くない。
 定家の嫡子貞俊はそうした南朝のしがらみを断ち切るかのように、生まれ育った奥平の地を去ろうと決意した。奥平の地を去る時、貞俊と行を共にしたのは父定家、弟定直(中金城/岡崎市中金町)で、それに従う家人は桜井刑部大夫ただ一人であったと伝えられている。まさに逃避ともいうべき出奔であった。
 その貞俊一行のたどり着いた先がここ三河の作手郷なのである。時は天授年間(1375〜81)のことであったという。
 貞俊らはひょっこりと無縁の地に現れたのではない。ここには定家の妻の縁筋で山崎三郎左衛門高元という武士が居て、それを頼ったのであった。貞俊らは高元のはからいで甘泉寺(作手鴨ヶ谷/川尻城の南東約2`)を寓居とした。
 貞俊がこの川尻城を築いたのは応永三十一年(1424)三月であったといわれている。年齢は七十五歳ということになる。関東出奔以来ひっそりと山里に暮らし、老いた貞俊を動かしたものは何だったのであろうか。
 貞俊は作手に来てから三人の息子を儲けていた。貞久、貞盛、定武である。嫡男貞久が武人としての器を備えていることに貞俊は大きく心を動かされたのではないだろうか。貞俊の体内に眠っていた坂東武者の血が沸々とたぎるのをもはや抑えることはできなかった。
 築城に先立ち、貞俊は貞久とともにこの丘に登り、目を輝かせて云った。
「奥平の家をここから興すのじゃ」
 と。

 ▲ 本丸へ登る途中には公園の入口として設けられたも
のか、「川尻城冠木門」なるものが建てられている。

▲ 本丸跡から南を眺めると文殊山城・塞之神城(右方の連山)や古宮城(左の独立丘)、その間遠方には亀山城の各城跡が見える。
----備考----
画像の撮影時期*2008/04

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