草間城
(くさまじょう)

                   豊橋市向草間町            


▲ 草間城跡の主郭部分は宅地化されてすでになく、ここ素盞鳴(すさのお)
社の辺りが主郭東側に連なっていた曲輪の一部となっている。

湾岸の孤塁

 戦国期、この草間城は三河湾に半島状に突き出た高台にあり、北西南の三方が海水に取り囲まれた要害であった。海に突き出た西端が主郭で、東の陸地側に枡形の虎口を持ち、土橋を介して外側(東側)の曲輪に馬出しが設けられていたようである(「浅野文庫絵図」)。
 つまり、海上監視型の城塁であったと思われるが、その城史に関しては伝えられることがあまりにも少ない。「豊橋市史」やその他の資料を見ると、芳賀入道禅可の末孫で今川家臣の芳賀七郎が城主であったとし、その後に畔田(くろだ)監物が居城としたとある。そして牧野氏が今橋城(吉田城)を居城とするとともに廃城となったという(「渥美郡史」)。ただし廃城の年月は不詳とされている。
 知りうることはこれだけである。わずかに牧野氏と今橋城が登場することから、草間城の存在した時代の推測がつく。ただ、牧野氏を牧野古白とする資料もある。この場合、古白の今橋居城と同時に草間城が廃城となったとすると、今川氏の東三河進出の時期とを考え合わせるとつじつまが合わなくなる。
 今川氏の東三河への直接的な進出は永正三年(1506)の今橋城攻略からである。今川氏親の代で軍勢を率いていたのは北条早雲であった。
 この戦いで城主牧野古白は討死、今橋城には今川氏に協力した戸田氏が入った。城主となったのは戸田宣成である。この時、東三河一円は今川氏の勢力下におかれた。ここ草間城に今川の臣芳賀七郎が城主として置かれたのはこの時であったかも知れない。
 この数年後、早雲は相模攻略に集中することとなり、今川家重臣の立場から外れることとなる。同時に遠江の支配をめぐって今川氏と斯波氏が激闘を繰り返すこととなり、今川氏の東三河支配は弱まっていった。草間城に畔田氏が入ったのはこの頃かとも思われる。当然、戸田氏に属するかたちであったろう。
 永正十五年(1518)、斯波氏との抗争に勝ち、遠江を掌握した今川氏親は再び東三河への介入を始めた。この時今川方に接近して協力したのが牧野氏であった。牧野氏は今橋城を奪還するために今川の大軍とともに城を囲み、戸田宣成を追い出したのである。新たに城主となったのは古白の子とも言われる牧野信成であった。
 一方、退城した戸田宣成は梅田川が三河湾に注ぐ河口部に築かれた大崎城に入り、牧野方との対峙を続けることとなる。草間城が廃城となったのはこの頃ではないだろうか。今橋城を撤収した戸田氏とともに草間城の畔田氏も梅田川以南に撤収したものとも考えられる。
 いずれにせよ、苦しい推測と想像に頼るしかない草間城である。城跡も主郭部分は市営住宅地に造成されてすでに消滅、わずかに素盞鳴社の辺りが城域として残っている程度である。しかし、遺構として確認されているものはない。

▲ 神社の西側は曲輪状の平坦地となっている。
----備考----
画像の撮影時期*2009/08

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