森 城
(もりじょう)

                 豊川市森6              地図


▲ 森城は常陸国佐竹氏の一族が戦国初期に三河に移住して築いた
ものとされる。現在は望理(もり)神社の裏手に土塁が残っている。
(写真・城域の一部となっている望理神社。)

常陸佐竹氏有縁の古城

 森城の歴史の詳細についてはよく分らない。
 「新編・豊川市史」には「森城主の佐竹氏は、常陸国水戸城主の佐竹氏の一族で、同国高崎へ分家した者の四代目の孫、刑部左衛門尉源政義が、その子伊賀守政明や家臣を率いて三河の中条郷鍛冶村に来住し、その後寛正元年に森村に城を築いて移り住んだと言われている」とある。「三河国二葉松」には「佐竹刑部太夫寛正元年棟札」とのみある。

 いずれにせよ寛正元年(1460)という年代が気にかかる。佐竹刑部政義が一族家臣を引き連れて三河にやって来たのはこの寛正元年以前ということになる。この当時の常陸国守護は言うまでもなく佐竹氏である。とはいえ、関東公方足利氏や関東管領上杉氏との関係やら同族内における抗争などによって弱体化の一途をたどっており家中混乱の最中にあった。こうした状況下で佐竹刑部らは何らかの経緯で常陸を落去せざるを得なくなったのであろう。
 さて、三河宝飯郡に落ち延びた佐竹刑部らである。この当時、一色時家が宝飯郡に城(一色城)を築いて地域の土豪(牧野氏や波多野氏ら)を従えて勢力を張っていた。時家は三河守護一色氏と同族であり、彼もまた関東の争乱を逃れて同郡に落ち延びてきたという経歴を持っている。その後、一色時家は下剋上によって滅ぼされ、やがて牧野氏が台頭して東三河の覇者となってゆくのであるが、佐竹氏の名は史上に見ることは出来ないようだ。


▲ 望理神社裏手に残る土塁跡。

 しかし戦国争乱の荒波を受けずに生き続けることは不可能である。時の流れに翻弄されつつも懸命に生き抜いたことは間違いないはずである。さして要害の地とも思えぬ土地にわずかに残された土塁の一部が、それを如実に物語っているように思えてならない。

 ▲ 望理神社の北側、県道31号傍に立つ標柱。
▲ 神社拝殿の周囲に巡る土塁。

▲ 城址遠景。田畑に囲まれた平地の城跡である。
----備考----
訪問年月日 2013年6月1日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「新編・豊川市史」他

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