野田館
(のだやかた)

           新城市野田           


▲ 豊川の堤上から見た野田館跡。道端の白い説明板の手前がそれであるが、遺構などはない。

戦国、生き残りの策

 現在はここを訪れても何もないただの空き地であるが、ここにはかつて設楽郡全域を領した富永氏の館があったところである。

 富永氏は大伴氏の裔で、三河幡豆郡司となって下向した伴清助がこの地域における同氏の遠祖とされている。その子孫が東三河地方にひろがり、保元の乱(1156)には源義朝方として富永六郎大夫親兼が参じている。この親兼が三河富永氏の祖となり、次第に設楽郡の千秋氏の領分を侵すようになったのではないだろうか。

 建武二年(1335)、親兼から八代後の直郷は足利尊氏の命により千秋氏の居館であるここ野田館に入り、千秋氏に替わって設楽郡と宝飯郡の一部を含む広大な地域を領するようになった。

 戦国期に入ると菅沼氏や奥平氏が郡内に勢力を拡大し、土豪の多くがこの両氏に属するようになった。当然のことながら富永氏の領地は狭まり、永正二年(1505)頃には館周辺の野田郷四ヵ村のみとなってしまった。当主は直郷から八代目の千若丸であったが、行く末を儚んだのか乱心自害してしまった。これで富永家は絶えた。

 困ったのは残された家臣と家来たちである。その後しばらくは家臣らで館を守り続けたが、次第に他家に仕えるなどして館を去り、終には今泉四郎兵衛という家臣だけとなってしまった。

 四郎兵衛ひとりでは家中の士と領民を束ねるには限界があった。家中では家存続のために都から公達を迎えて継がせたらどうかという思いが強かったらしい。
「それは無茶というものだ」
 このような破滅同然の家を継ぎに誰が都から来るものか。四郎兵衛は意を決して行動を起こした。菅沼家から若君を迎えるのである。

 四郎兵衛は独断で菅沼家の本城である田嶺城へ向かった。田嶺の菅沼家には富永家を去った家臣で城所道寿信景や城所助之丞直政らがいた。四郎兵衛は城所助之丞を介して当主菅沼定忠の三男竹千代(定則、十四歳)を迎えることに成功したのである。

 永正二年十一月、竹千代と随従の臣、菅沼権之丞、城所助之丞、塩瀬甚兵衛らが田嶺から野田に向かった。しかし野田では四郎兵衛が家中の説得に手こずっているようで、竹千代の一行は山村の中島市兵衛の屋敷(新城市豊永)に入って様子をみることになった。

 家中がまとまらぬのも当然で、菅沼家は富永家の領地を侵し続けてきた仇敵なのだ。そこから主を迎えるなど我慢ならぬ、ということなのであろう。それでも四郎兵衛は説得し続けた。
「これからの世を生き残るにはこれしかないのだ」
 四郎兵衛の懸命な説得により、翌年二月十一日に竹千代を野田館に迎えることができた。この日が野田菅沼家のはじまりとなったのである。

 この年の八月には今川の先手として田嶺菅沼、長篠菅沼、作手奥平らとともに西三河に出陣、矢作川の戦いに加わった。これは竹千代の初陣となったが、また四郎兵衛と富永旧士の面々にとっても初めて味わう戦国の怖ろしさであったに違いない。

 しかし、それにもまして新しい主人を得たことによって、わずかながらも未来に明るいものを感じていたことも事実であったろう。

 永正五年(1508)、四郎兵衛は戦国を生き残るための新城(野田城)の築城にとりかかった。それは千秋、富永という古代、中世の亡霊たちとの決別でもあったといえよう。

館跡に設置された新城市の説明板。



----備考----
訪問年月日 2007年11月
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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