左京殿城
(さきょうでんじょう)

                豊橋市嵩山町        


▲ 左京殿城は三河・遠江の国境本坂峠を越える街道の三河側入り口に
位置する要衝である。現在も城址の北側直下を国道362号が通っている。

西郷氏の嵩山進出

 大永三年(1523)、この城に居た小枝左京進が西郷弾正左衛門正員に追われ、土地を捨てて逃亡した(石巻村史)。
 左京殿城に関して知り得ることはこれだけである。ただ、同年のこととして西郷弾正左衛門尉信員が嵩山(すせ/豊橋市崇山町)の一族右京進を逐ってこの地を押領、月ヶ谷城を築き今川に属したことが伝えられている(本興寺史)。信員と正員は同一人物とも言われている。
 ともかく西郷正員は嵩山に土着した西郷氏の初代とされる武将である。先の二つの出来事から大永三年(1523)という年に西郷氏一族内に多少の争いがあったものと思われる。それが正員のもとに統一されて月ヶ谷城の築城に至ったのではないだろうか。
 小枝左京進は嵩山に土着しようとする西郷氏によって一蹴されたかのように伝えられているが、在地土豪のなかにも社寺の棟札にもその名が出てこないと言われる謎の武士である。もしかすると先の二つの出来事は同じものなのかもしれない。そうすると西郷右京進と小枝左京進は同人であったという見方もできる。西郷氏の歴史の初期の段階で追放された一族の名を後世に残すまいと故意に変えて伝えたものなのかもしれない。
 現在、城址を訪れると小さいながらも空堀、土橋、虎口、土塁といった遺構が良好な状態で見ることができる。それはこの地を去ったという小枝左京進の手によるものではなく、確たる証拠はないが、この地を押領した西郷氏によるものであろう。月ヶ谷城の支城として戦国期を通じて維持されたものではないだろうか。

▲ 主郭土壇上には小さな祠が置かれていた。
 ▲ 城址西側の用水路。この水路の東側(右側)のフェンスに沿って北(向こう)へ進むと行き止まりのフェンスがある。
▲ 行き止まりのフェンス手前から山側に入る。整備されていないので勇気を出して突撃!

▲ フェンスから山側へ踏み入ると空堀と思われる窪地となっている。ここからは高みに向かって直登する。

▲ 主郭を取り巻く空堀と土橋(手前)。

▲ 主郭土壇。

▲ 城址付近から見た月ヶ谷城。中央のピーク。
----備考----
訪問年月日 2011年10月16日
主要参考資料 「西郷氏興亡全史」他

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