篠束城
(しのづかじょう)

           豊川市篠塚町大堀      


▲ 篠束城の大堀跡の風景。現在は農地の区画整理によって城跡の痕跡を
見出すことはできない。この道路の右側に堀跡を示す説明板が立っている。
それによると、この道路を横切るようにして堀が存在していたようである。

篠束西郷氏いずこ

 篠束城は大正時代まで堀の一部が100b位残っていたというだけで、城の規模や縄張りについてはまったく分かっていない。現在ではその堀の一部さえもが区画整理で消滅してしまい、その痕跡すら残されていないのである。
 ただ、ここに城があったことは事実のようで、その時代は南北朝時代の初期にまで遡る。小坂井町の説明では、群馬県邑楽郡邑楽町字篠塚の出生の篠塚伊賀守重広が延元元年(1336)に新田左馬助義氏と共に東海地方に進出して足利方を制圧し、当地に篠束城を構えて東海道と伊那街道との要所を守備した、とある。
 その後、都落ちした足利尊氏は九州で巻き返しを図って上洛、武家政権を打ち立てるのであるが、その際に九州から足利方に従って東上してきた武士のなかに西郷弾正内蔵助がいた。この西郷氏が篠塚氏の篠束城を修築して居城としたと伝えられている。
 この九州からやってきた西郷氏は戦国期には守護代となった岡崎の西郷氏と嵩山(すせ/豊橋市)の西郷氏、そしてここ篠束の西郷氏の三系が存在していた。それぞれの関連については明確には分からないようである。
 永禄三年(1560)に駿河、遠江、三河を領した戦国大名今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた。その後、徳川家康は今川から離れて織田信長と和睦するのであるが、この時に義元亡き後を継いだ今川氏真が使者を家康のもとへ送って、恩を忘れたかと難詰している。実はこの時の使者が西郷内蔵助俊雄で篠束城主であったといわれている。
 その後、西郷俊雄は家康が東三河平定に乗り出して来たとき、永禄五年(1562)九月に今川を見限って家康に臣従したといわれている。
 しかし、その後のことは分からない。ただ、言えることは比較的大きな堀跡の一部が近年まで残っていたということと、西郷弾正の墓とする五輪塔が伝えられていることぐらいである。

▲ 城址近くの天牛山医王寺の境内に安置された「松風碑」と呼ばれる伝西郷弾正の墓。
----備考----
画像の撮影時期*2009/07

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