城の腰城
(しろのこしじょう)

                 豊川市萩町二反田        地図


▲ 城の腰城は萩を領した萩奥平氏によって築かれたものとされ、土塁や堀などの遺構が僅かに残る。
(写真・県道332号に分断された城跡。標柱の所から左へ上がると曲輪跡に出る。)

城主が涙を呑んだ城跡

 設楽郡作手郷に土着した奥平氏は15世紀中頃には近隣の村々を従えて勢力を拡大した。ここ萩の地も二代貞久の時に領地となり、貞久四男主馬允が領主となって一家を興した。萩奥平氏である。はじめ字下ノ坪に山城/萩城を築いて居城としたと思われる。
 初代主馬允、二代伝五郎と続き三代勝次の頃になると永禄・元亀・天正(1558-1592)という戦国激動の時代となる。城の腰城もこの頃には萩奥平氏の居城となっていたものと思われる。
 城主であった三代周防守勝次は永禄三年(1560)の今川義元による尾州攻めに際し、本家亀山城主奥平貞能と共に松平元康の軍勢に加わり、桶狭間合戦に先立つ丸根砦攻めに功をなした。
 元亀元年(1570)、信州から南下して東三河に進出した武田氏は菅沼氏と奥平氏に従属を促してきた。武田の大軍を前にしては従わざるを得ず、菅沼氏も奥平氏も武田に属することになった。当然、戦国の世であるから人質を要求される。本家からは貞能二男仙丸十歳、分家日近奥平久兵衛貞友の娘於フウ十三歳そして萩奥平家から勝次の二男虎之助十三歳が武田方に渡された。

 しかし、天正元年(1573)に武田信玄の死を知ると、貞能は一族を引き連れて亀山城を脱して徳川家康のもとに帰参してしまった。無論、勝次もこれに従った。信玄の後を継いだ勝頼は激怒して奥平の三人の人質を処刑してしまったのである。戦国の世とはいえ息子を殺された勝次の悲痛な叫びが聞こえるようである。
 この年、奥平氏は長篠城在番を命じられ、貞能の嫡男貞昌(信昌)を城将として入城した。勝次もこれに従って長篠城の守りに就き、天正三年(1575)の長篠設楽原の合戦で城を守り抜き戦功を上げた。
 勝次は天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いにも参陣して功を重ね、関東に移ってからは宇都宮にて千五百石を拝領したと言われている。
 城の腰城は息子を人質に取られ、殺された奥平周防守勝次が涙を呑んだ城跡なのであろう。


▲ 曲輪西側の縁辺に見られる土塁跡。
 ▲ 丘の上の平坦部。竹林となっており、縁辺部には土塁跡が見られる。
▲ 曲輪の北東端には切通しの通路があるが、堀切跡の名残りであろうか。

▲ :県道沿いに立つ標柱。
----備考----
訪問年月日 2013年7月7日
主要参考資料 「東海古城研究会・城180号」
「長篠戦史・山家三方衆」他

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