田原城
(たはらじょう)

                   田原市田原町巴江           


▲ 平成五年に解体前の古写真をもとに復元されたという桜門。その奥に二の丸櫓が見える。

戦国戸田氏、
      竹千代強奪

 田原城の創築は文明十二年(1480)頃で戸田弾正左衛門宗光が初代城主である。
 それ以前、応仁の乱で三河守護の一色氏は西軍につき、東軍の今川氏(駿河)が遠江から三河へその勢力を伸ばしていた。碧海郡上野(豊田市)在であった戸田宗光は今川義忠の支援を受けて大津(豊橋市)に移り、さらに田原に進出して築城した。
 田原には一色義範の甥の守護代一色七郎政照が居たが、宗光はこの政照を隠居に追い込み、その死後は渥美半島を統一して三河湾をも制したといわれている。
 今川義忠の死後、今川の衰えに乗じて宗光は田原城を息憲光に譲り、自らは二連木に築城して反今川の旗を掲げ、宝飯郡にまで覇を伸ばした。しかし、今川方の朝比奈泰以の攻めを受けて討死、二代憲光は今川に属して政光、康光と代を重ねた。
 四代目康光、田原城主となったのは大永六年(1526)であった。彼ははじめ曽祖父の名である宗光を名乗っていたが、享禄二年(1529)の松平清康による東三河平定戦の際に松平方に降り、清康の一字を貰い受けて康光に改めたのであった。
 しかし、二年後に松平清康が横死すると東三河の情勢は不安定となり再び今川氏の三河進出にさらされることとなった。そうした転変の間を衝くようにして康光は吉田城(豊橋市)に一族の戸田宣成、同吉光を置いた。
 天分十五年(1546)、今川勢は吉田城を攻め落し、戸田宣成、吉光を討ち取った。
 今川の三河への勢力伸張にともない、尾張織田氏の攻勢に苦しめられていた松平氏は今川の援を請うことになった。松平氏はこれ以外に生き残る道はないという状況にまで落ち込んでいたのである。松平広忠は天分十六年、人質として嫡子竹千代(後の徳川家康)を駿府に差し出すことにした。
 その道中警固役として同道したのが戸田康光、尭光父子であった。康光の娘が広忠の後妻となっているから広忠は康光を信頼してのことであったのだろう。

▲ 二の丸櫓。戦後復興されたもので内部は考古資料を主とした展示室となっている。天守閣を持たなかった田原城にとってはこの二層の櫓が城郭としての威容を示すものであった。
 しかし康光にとって今川は吉田城に居た戸田一門を滅ぼした憎むべき相手である。康光は竹千代を警固して西之郡(蒲郡市)から海路田原に向かった。そこからさらに駿河に向かう予定なのである(「三河物語」)。
 田原城は巴江(はこう)城とも呼ばれるように城のすぐそばにまで潮が流れ込み渦巻いていたと云われている。康光は竹千代をここから駿河へではなく海路尾張の織田信秀のもとへ送ったのである。この時、永楽銭千貫目で売ったともいわれている。
 これを知った今川義元は直ちに吉田城在番の天野景貫らに田原城攻めを命じた。この時の戦いがどのようなものであったかは知る由もないが、康光、尭光父子は城とともに滅びてしまった。
 その後、田原城には今川の臣朝比奈肥後守元智、岡部石見守輝忠が城代として入ったが、永禄七年(1564)には徳川家康による三河平定が進み、本多豊後守広孝が攻め寄せて朝比奈元智らを退散させて城主となった。
 天正十八年(1590)、家康の関東移封まで本多広孝、康重と二代続いた。そして豊臣秀吉の天下となり、東三河は池田輝政の領分となった。田原城には池田家臣の伊木清兵衛忠次が主となって入った。
 二の丸櫓や桜門などが建造され、空堀や土塁などの改修が施されたのはこの頃のこととされている。
 ▲ 本丸跡の巴江神社。田原藩主三宅氏の遠祖児島高徳と徳川家康に仕えた三宅康貞を祀る。
▲ 三の丸跡は護国神社の境内地となっている。

譜代田原藩
      一万二千石
 慶長六年(1601)、関ヶ原の戦後処理によって吉田城の池田輝政は姫路五十二万石に栄転して田原城には戸田尊次が一万石で入った。家康のはからいで再び戸田氏が先祖の地に返り咲いたことになる。この尊次は今川義元に滅ぼされた康光の弟光忠の嫡孫にあたる。尊次の父忠次は三河一向一揆との戦いに際し家康のもとで功をあげ、徳川譜代衆として活躍していた。
 田原戸田藩は尊次の後、忠能、忠昌と三代続いて寛文四年(1664)に肥後天草富岡城へ移った。忠昌は天草の地で富岡城の本丸、二の丸を破却して三の丸のみとし(「戸田の破城」として知られる)、城の修復維持にかかる領民の負担をなくした名君として知られている。
 戸田氏の後は三河挙母から三宅能登守康勝が一万二千石で入封した。三宅氏も徳川譜代の臣で、康勝の事歴として知られているのが田原城の再建、改築である。慶長九年の大地震で損壊したまま修復が遅々として進んでいなかったものを一挙に完成させたのである。二の丸の二層の櫓、二の丸、三の丸、藤田曲輪の石垣普請などで三年の歳月を費やしている。
 その後、田原藩は三宅氏が十二代二百余年間続いて明治を迎えた。
 幕末には家老渡辺崋山が憂国の先覚者として名を残した。現在の城址出丸跡には崋山神社が建てられ、渡辺崋山が祀られている。
 明治の廃藩置県後、本丸殿舎をはじめとする建造物は解体され、田原城の歴史は幕を閉じた。

▲ 田原城古井戸。本丸と二の丸の間の空堀跡にある。

▲ 桜門前の城址碑。
----備考----
画像の撮影時期*2007/02

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