牛久保城
(うしくぼじょう)

                   豊川市牛久保町          


▲ 牛久保城の遺構は消滅してその面影すらない。かつての
本丸付近に「牛久保城址」の碑が建てられているのみである。

「常在戦場」の地

 牛久保城は享禄二年(1529)に当時吉田城主であった牧野信成が一色城主であった牧野成勝に命じて築かせた城と云われている。そして信成の子といわれる出羽守保成が城主となった。
 戦国の様相が激化するなかにあって牧野氏の本拠地にも本格的な城塞を必要としたのであろう。城は台地先端部を利用して南東側は崖状となり、北西側には本丸を囲む二重の堀が廻らされた。そして武家屋敷や寺院を城の周囲に配し、街道沿いには民家が建ち並んだ。城郭史的には近世城下町の先駆的な要素を持つものであったとされている。
 牛久保築城の年、吉田城は松平清康勢によって攻め落とされ、牧野信成以下一族家臣の多くが討死してしまった。
 それにしてもこの清康の暴威は一時的なもので、その後の東三河は今川氏の支配下に置かれ続けた。当然、牛久保城の牧野氏は今川方の武将としてあり続けた。
 永禄三年(1560)、今川義元が桶狭間で討たれた。これを期に三河国内は松平元康(徳川家康)を中心にして揺れ始めることになる。
 翌年四月、元康は牛久保城に兵を向けた。しかしこれは元康自らの出陣ではなく牧野氏内部の争いであったと見られている(「岡崎市史」等)。つまり反今川派の牧野平左衛門父子と牧野弥次右兵衛尉らによる蜂起で、城主保成以下家臣の稲垣平右衛門尉重宗、池田小左衛門、陶山善六らが奮戦して蜂起勢を討ち滅ぼした戦いであったようだ。後に今川氏真から先の奮戦者に感状が与えられ、さらに蜂起した牧野平左衛門らの所領が彼らに分け与えられている。
 これと同時期に西三河では牧野貞成が松平勢との戦いに敗れて、西尾城から牛久保へ引き上げている。
 永禄五年(1563)になると松平方も一宮砦(豊川市一宮町)を築くなどして東三河に軍勢を向け始めた。これに対して今川氏真も一万余騎を率いて牛久保に本陣を構えた。氏真の三河出陣はこれが最初で最後となる。しかし翌永禄六年早々には大した働きもせずに駿府へ引き上げてしまった。やったことといえば大聖寺(義元の胴塚がある)で父の三回忌を営んだことくらいである。
 この年三月、松平元康は千五百余騎で一宮砦の後詰に出陣して牛久保城を攻めた。
 この戦いで城主保成は死んだ。切腹したとも、合戦で討死したとも云われており、その真相は不明である。保成の後は西尾城から戻っていた貞成(もしくは成定/牧野氏の系譜は錯綜していて不明な点が多い)が城主となった。
 成定(成定は貞成の子とも同一人であるとも云われている)は永禄八年(1565)に家康(元康から改名)への臣従を誓ったという。永禄九年、成定は前城主保成の子成真らを追放して家康から本領を安堵された。十月、成定は一族の未来を信じつつ病に没した。四十二歳であったという。
 これで牧野氏は三河国衆として徳川家臣団に組み込まれ、成定の嫡子新次郎(永禄九年当時は今川家に質子となっていたという)が家康の一字を貰って康成と名乗り、年月とともに武功を重ねた。
 天正十八年(1590)、家康の関東移封により、康成は上野大胡二万石の大名となった。康成の後継忠成は元和四年(1618)に越後長岡六万石を拝領、そして十三代続いて明治に至った。
 牧野氏の去った牛久保城は吉田城に入った池田照政の支配となり、池田家臣の荒尾平左衛門の預かりとなった。関ヶ原合戦(1600)後は天領となり、元禄十二年(1699)に至り、廃城となった。
 ちなみに長岡藩では「参州牛久保之壁書」として知られる三河以来の士風を大切にしている。「常在戦場」の四字は長岡出身の連合艦隊司令長官山本五十六の座右の銘として知られている。これは牛久保之壁書の第一に書かれている言葉であり、戦国戦乱の中を生き抜いた牧野氏ならではの一ヵ条である。
 ▲ 城址碑の建てられている小公園から見たJR牛久保駅。駅の周辺部が城跡であったとされている。
▲ 城址碑の建つ小公園の入口に建てられた説明板。
----備考----
画像の撮影時期*2007/09及び2008/04

 トップページへ三河国史跡一覧へ