和名の城
(わなのしろ)

                   田原市堀切町            


▲ 渥美半島唯一の山城とされる和名の城。この山は城山と呼ばれ、
山頂部に曲輪状の遺構が残されているという。国道42号からの眺めである。

謎の山城

 渥美半島の突端、伊良湖岬まであと4`というところにこの「和名の城」がある。渥美半島では唯一の山城である。
 ところが、城の由来についてはあまり分かっていない。
 唯一伝えられているのは、今川氏真の命によって小笠原氏(新九郎安元)が在番したということである。しかし、凋落の一途をたどりつつあった今川氏真の時代(桶狭間で今川義元が敗死した永禄三年/1560以後)に渥美半島の突端部に兵を常駐させる必要があったのかと疑問になってくる。しかも小笠原安元は永禄七年(1564)の徳川家康による吉田城(豊橋市)攻めに家康方として参陣しているのであるから、当初今川方であったとするならば桶狭間合戦後四年の間にこの城の在番となっていたということになる。
 後に安元は康元と改め、遠州高天神城主の小笠原長忠を同族ということで家康の命により徳川方へ寝返らせている。この功により渥美半島部の赤羽根、芦、赤沢の地を与えられ、赤羽根に城を築いている。どういうわけか康元は渥美半島に縁があるようだが、考え過ぎであろうか。
 地元の「渥美町史」には「三州日記」や「武徳編年集成」を典拠として、小笠原安元は永禄三年の時点で徳川方であったとし、今川氏真方ではなかったと断じている。そして伊勢・遠江の南北朝期の城跡に類似しているとし、半島西部の伊勢神宮領の総追捕使で南朝方の桧垣氏が拠った砦であったと推論している。
 いずれにせよ、謎は深まる一方であるが、ここに山城が築かれていたということは、字名の「堀切」という地名や、この山を「城山」と呼んでいることなどから間違いないと思われる。
 太平洋戦争時、この城山には監視哨が設けられ、城としての遺構は大きく改変された可能性が高いとも言われている。
 ともかく、半島唯一の山城として貴重な遺跡であり、その保存と歴史の解明が今後進むことを期待してやまない。

▲ 城山南麓の寅之神社。城山との関連は…?
----備考----
画像の撮影時期*2009/10

 トップページへ三河国史跡一覧へ