林添館
(はやしぞれやかた)

:            愛知県豊田市林添町井ノ向       


▲林添館は薮田源吾忠元という土豪の館である。領地拡大に
乗り出した松平親氏が最初の標的にしたと伝えられている。
(写真・館跡に建つとされる神明社。)

親氏、最初の領地拡大

 南北朝時代の後期、在原信重の婿となってその遺領である松平郷を引き継いだのが松平氏の始祖となる太郎左衛門親氏である。
 親氏は領内の道普請や橋梁の架設を行い、また貧者を救うなど善政に力を尽くし、領民の信望は厚く、領内は栄えたと言われる。しかし、領内をさらに豊かにするために、より肥沃な土地が欲しかった。親氏は「このあたりを少しづつ治めて行けば十代の内には必ず天下を治めうるであろう」と言ったという。事実、天下を平定した徳川家康は親氏の九代目にあたるのである。
 その親氏が領地拡大の最初の標的にしたのが隣村の林添村であった。林添一帯を支配しているのは薮田源吾忠元という土豪である。親氏の館(松平氏館)とここ薮田源吾の館は2kmほどしか離れていない。
 領地切り取りを決意した親氏は人数を揃えると敵を欺くために鷹狩を装って松平の館を出発したという。林添に侵入した親氏らは不意に薮田源吾を襲い、討ち取ることに成功した。
 薮田源吾の館は現在の林添町井ノ向にある神明社の建つ山がそれであると言われている。この神明社の北200mほどに晴暗寺がある。この寺の境内に古い墓塔が集められた無縁墓地があるが、その中央の供養塔が薮田源吾のものと伝えられている。神明社、晴暗寺ともに国道301号線沿いにある。

 林添村を手中にした親氏は松平郷同様に道普請や橋梁の架設を行い、住民の慰撫に努めたはずである。
 その親氏がせっせと住民のために汗を流したという名残りが林添に存在する。先の晴暗寺の西側に細い川が流れており、この川を100mほど下ったところに石橋が架かっているが、この橋が親氏の架けたものと伝えられているのである。石橋の前に立てられた松平親氏公顕彰会による説明板には「伝親氏石橋」とある。


▲「伝親氏石橋」。川筋、川幅が戦国の昔から変わらずにいるということは稀有なことだと思うが、いつの頃からか親氏の功績をたたえようと村の人々に大切にされてきたものなのであろう。

▲林添町の神明社。この丘が薮田源吾の館跡と言われている。

▲晴暗寺に集められた無縁石塔。中央の大きめの石塔が薮田源吾忠元のものと伝えられている。

▲伝親氏石橋の側面。石を割るための矢穴が見える。
----備考----
訪問年月日 2015年3月21日
主要参考資料 「葵のふる里の歴史」
「葵のふるさと松平郷-松平親氏」他

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