松平城
(まつだいらじょう)

                   豊田市松平町          


▲ 松平城の主郭跡に建てられた城址碑。

戦国、船出の城

 郷敷城とも呼ばれ、松平氏の始祖親氏によって築城された山城である。
 城山の東側最高所を主郭とし、西に向かって三段の曲輪が配されている。土塁や石塁はなく、主郭の裾部分に横堀を廻らしただけの簡素な縄張である。
 親氏が在原氏の遺領松平郷を引継いだのは南北朝時代の末期、十四世紀後半頃のことと思われる。そして親氏は一族の生き残りを賭けて領地拡大の道を歩き出したのである。
 時期は分からないが、まず最初に攻略の手を伸ばした地は西隣の林添(はやしぞれ)村であった。林添の土豪藪田源吾忠元の屋敷を急襲して討取り、その領地を奪った。その後続いて南に転じて中山七名と呼ばれる乙川流域の村々を奇襲して攻略している。
 松平城は、こうした近隣攻略戦に乗り出すのに先立って、松平郷自衛のために親氏が築城したものであろう。まさに、荒狂う戦国の大海に船出するための出発の城となったといえよう。
 親氏のとった戦術は払暁、あるいは夜間における奇襲を得意としたようである。少人数で勝ちを得るには敵の不意を衝くしかないのだ。必然的に自身の郷の守りも昼夜を問わず気を抜くことはできない。敵とて同じことを考えるからである。
 城の規模から推測するならば守りには数十人の兵を要したであろうとみられている。そしてこの兵力が親氏の動員しうるものであったということになる。
 親氏の後は弟の泰親がここを本城とし、親氏の子(信広、信光)らとともに矢作川岸の岩津城の攻略に出撃していった。泰親と信光は岩津城を奪い取るとそこに本拠を移し、松平城は親氏長男の信広が松平郷の屋敷(松平氏館)とともに継いだ。
 その後は信広の家系である太郎左衛門家の城となったが、どのようなかたちで維持されたのかは分からない。天文年間(1532-55)の中頃に大給城の松平親乗によって松平郷が襲われ、太郎左衛門家の屋敷、先祖伝来の重宝など悉くが焼かれてしまったことがあるが、松平城もその惨禍を蒙ったはずである。城としての機能はこの頃に失われたのかもしれない。高月院訴状には天正十八年(1590)に破却したとあると云われ、豊臣政権下に至り、完全に廃城とされたのであろう。

▲ 最も低い位置にある曲輪4には「十一面観音堂」が建てられている。
 ▲ 城址登城口に建てられた国指定史跡の碑。
▲ 城址最高所の主郭跡。

▲ 曲輪2から曲輪3へ降りる路。
----備考----
画像撮影時期*2008/11

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