大給城
(おぎゅうじょう)

国指定史跡(松平氏遺跡)

            豊田市大内町城下    


▲大給城は松平氏発展の過程で支配下に置かれた山城である。後に大給松平氏の
根拠地となった城で、同族間の争いで焼き打ちされるなどの歴史を残している。
(写真・主郭西側の巨岩群。)

松平氏飛躍の大給攻略

 松平泰親が矢作川西岸の岩津城を攻略したのは応永二十八年(1421)のことであった。泰親は初代親氏の舎弟であり、この岩津城攻めには甥の信光を伴っていた。その後松平氏は岩津城を根拠地として四隣に勢力を拡大して行くことになる。三代目となった信光の時代に松平氏は多くの族葉を形成して各所に配し、また姻戚を多方面に広げるなどして大きく飛躍した。
 しかし、大給の長坂氏の存在が松平郷と岩津の間にあって初代親氏の頃から松平氏にとっては大きな壁になっていたのである。英気あふれる信光はこの状況を打開するために大給攻略に踏み切ることになる。
 この大給攻めがいつのことであったのかは明確ではない。一般的には応仁・文明(1467-87)の頃とされているがもっと早い時期のことであったかもしれない。
 こうした松平勢の動きに対して大給城の長坂新左衛門は姻戚にある保久城(岡崎市保久町)の山下庄左衛門と近在の岩倉城主岩倉源兵衛に助力を求め、連合して巴川と郡界川の合流点付近(豊田市中垣内)の源兵衛山に布陣して待ち構えた。
 合戦の詳細は分からないが松平勢の完勝に終わり、長坂、保久の両人は討取られ、岩倉勢は離散したと言われている。この戦いを円川(つぶらがわ)合戦という。信光はそのまま大給城を確保し、翌日には保久まで進撃、城を焼き払って岩津に帰城したとされている。大給城の確保によってこの後の松平氏は西三河南部や矢作川西岸へ積極的に進出して行くことになる。
 信光は大給城を三男親忠に与えた。その後、親忠は安城城にあって松平氏の宗家的立場になったため大給城は親忠の次男乗元に与えられた。この乗元が大給松平氏の初代となる。
 大給城は永正七年(1510)、二代乗正によって大改修され、現在の遺構はこの頃のものとされている。今川氏親による勢力伸長の時期であり、これに対応したものと見られている。
 三代乗勝は早世したためその子親乗が四代となる。親乗は武勇に優れたことで知られ、享禄三年(1530)の松平清康による宇利城攻めに参陣(初陣か)して功を上げている。
 また同族の間でも対立することが多く、天文十二年(1543)から天文十七年(1548)の間に松平郷の松平氏館を夜討ち放火して家財・重宝を焼き払った。弘治二年(1556)には滝脇松平氏と戦い、滝脇初代乗清、二代乗遠とその長男正乗を討死させている。この合戦(滝脇合戦)の後、天正三年(1575)に乗遠の次男乗高に大給城を夜討ちされ、親乗は城を捨てて尾張に逃走したとされている。城が焼き払われ、城主親乗が退去したことで大給城は放棄された状態が続いたものと思われる。
 親乗の子で五代目となった真乗は細川城(岡崎市細川町)に居住したと言われ、徳川家康に仕えて掛川城攻めなど数多くの合戦に臨み軍功を重ねた。
 天正十年(1582)、真乗没して嫡男家乗(七歳)が家督を継ぐ。天正十八年(1590)の家康関東移封により三河を離れ、上野国那波郡一万石を与えられた。大給城はこの時をもって廃されたことになっている。
 ちなみに家乗の大給松平本家は後に美濃岩村城、遠江浜松城、上野館林城、下総佐倉城、肥前唐津城、志摩鳥羽城、伊勢亀山城、山城淀城、出羽山形城と封地を転々とし、明和元年(1764)に三河西尾城六万石に落ち着いて明治に至っている。


▲三郭虎口の石積み。。

▲主郭西端の巨岩「物見岩」。

▲林道からの登城口。

▲山道を登ってしばらくすると尾根道に出る。左へ行くと城址であり右に行くと松平乗元の墓がある。

▲松平乗元の墓。乗元は大給松平氏の初代である。またこの地は大給城の出丸跡とも言われている。

▲城址入口に建つ史跡碑。松平氏館跡、松平城跡、高月院と共に松平氏遺跡として国指定史跡となっている。

▲三郭の虎口。

▲二郭への虎口。

▲二郭。

▲主郭東側の石塁。

▲主郭虎口の石積み。

▲主郭。。

▲主郭の岩頭に建つ城址碑。

▲主郭西側には巨岩が点在している。

▲物見岩からの展望。

▲主郭南側にも巨岩が点在している。

▲見学者用駐車場。
----備考----
訪問年月日 2018年11月10日
主要参考資料 「豊田の史跡と文化財」
「松平氏とその史跡」他

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