東条城
(とうじょうじょう)

                   幡豆郡吉良町駁馬            


▲ 東条城の本丸虎口と城門。説明板によれば、
創建当初の鎌倉時代に近い状態に再現されたという。

同族相撃つ、
     吉良の古城

 鎌倉時代、承久の乱(1221)の戦功によって足利義氏が三河国守護となった。義氏は足利宗家を次男泰氏に継がせ、庶長男長氏と三男義継に吉良荘を東西に分かち与えた。長氏は西条に城館を構えて吉良西部を領し、義継は東条に城館を構えて吉良東部を領した。両者ともに吉良を名乗った。
 東条城の歴史は義継を東条吉良初代としてはじまったが、この当時の城館の規模などの詳細は分からない。
 義継の後、経氏、経家、貞家と四代続いて南北朝の争乱期に至る。四代貞家は足利尊氏と共に転戦して活躍、南朝方との戦いに明け暮れた。貞和元年(1345)、貞家は奥州管領として多賀城(宮城県多賀城市)に赴任して吉良の地を去り、その子孫は奥州吉良氏として続いた。
 同時期、西条の吉良満義も足利軍にあって活躍、足利直義の信任が厚かった。観応の擾乱(1352)でも子満貞と共に直義方に付き、尊氏方と戦った。直義は立場を南朝方に移して戦っており、満義、満貞父子も南朝方に付いた。時勢は尊氏が一時的に南朝方と和睦するなどして南朝方の勢威が復活しており、満義、満貞父子は南朝方の勝利を疑わなかったものと思われる。
 しかし、それも一時的なもので、足利方は一旦は失った京、鎌倉を奪還、尊氏は南朝との和睦を破棄して幕府体制の強化を推し進めることになる。
 こうした状況変化の中で西条吉良満義は、南朝方に固執する嫡男満貞と袂を分かち、尊氏に帰順したのであった。満義は帰順して間もなく、延文元年(1356)に没した。
 問題はここからである。東条城は吉良貞家が奥州管領として去った後、西条吉良氏によって接収されていた。ところが、尊氏に帰順した満義が没すると東条吉良の旧臣たちが満義三男尊義(九歳)を担いで東条城に独立、足利方に付いて南朝方の西条吉良の満貞に敵対したのである。
 これに対して満貞は東条城の独立敵対を押領行為であるとして許さず、両者は合戦状態となった。
 結局この戦いは西条の満貞が延文五年(1360)に足利幕府方に帰参を決意するまで続いて和睦となった。しかし、この時の争いの禍根は癒えることはなく、事有る毎に両者は反目して争うようになったようである。
 さて、尊義を初代として独立した東条吉良氏も朝氏、持長、持助と続き、義藤の代に至り戦国時代を迎える。応仁の乱(1467)である。義藤は山名宗全の娘を娶っていた関係で西軍山名方に属し、いち早く帰郷して東軍細川方となった西条吉良氏の領分を侵したという。西条吉良の当主義真も自領防衛のために帰郷、両者の戦いは文明九年(1477)の東西和睦まで続いたものと思われる。
 義藤の後、持清、持広と続く。持広の時代には、三河は今川と織田の勢力が衝突する場となっていた。持広は今川方に接近し、西条吉良の義堯は反今川の立場をとった。
 ところがどういう経緯か分からないが、義堯次男の義安が持広の養子となって東条吉良を継いだ。ちなみに西条吉良は義堯三男の義昭が継いだ。
 東条城主となった義安は織田方に付き、今川に背いた。この当時の義安はまだ幼少期であったから東条吉良の家臣らの意向でそうなったのかもしれない。

▲ 城址西側の藤波畷古戦場跡から見た東条城跡。永禄四年(1561)、城主吉良義昭は眼前で繰り広げられた負け戦を見て、徳川家康に降伏した。
 天文十八年(1549)、今川勢は織田方の安祥城を攻略、城主織田信広を生け捕った。今川方はこの信広と織田の人質となっていた竹千代(徳川家康)との交換に成功している。
 この時、織田方に付いていた東条吉良の義安も今川方の人質とされ、駿府(静岡市)に送られたのである。駿府で、義安は竹千代と共に成人した。
 一方の西条吉良の義昭は今川方に属していたために戦後の東条城は義昭に接収されてしまった。
 永禄三年(1560)、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、松平元康(家康)が今川方から独立して三河平定に乗り出した。翌年には西条城(西尾市)が攻略され、義昭の立て籠もる東条城にも酒井正親、本多広孝らの松平勢が押し寄せた。
 この戦いで吉良家の猛将富永伴五郎忠光が藤波畷の戦いで討取られ、東条城の義昭は降伏した。
 永禄六年(1563)、三河に一向一揆が起こって国内が乱れると義昭は再び東条城に籠城して家康に敵対した。
 家康は松平家忠らをして東条城を攻めさせて義昭を降したが、二度目の降伏は許さなかった。
 落城後、義昭は近江国六角氏を頼って落ち延び、その後は三好氏を頼って摂津国芥川山城に居たが、永禄十一年(1568)の織田信長による城攻めで討死したものと思われる。
 義昭の去った東条城には松平家忠が城主となって入り、東条松平氏と称された。家忠は天正九年(1581)に病没した。そして家康の関東移封にともなって東条城は廃城となったようである。
 ちなみに義昭落去後の吉良家は家康と人質時代を共にした義安が引き継ぎ、徳川家に仕えた。義安の後、義定、義弥と続き、関ヶ原合戦後に吉良三千石を安堵されて高家に列せられた。そして義冬、義央(吉良上野介)、義周と続き、元禄赤穂事件となって断絶した。
 ▲ 本丸の城門と物見櫓。
▲ 室町時代に連歌師宗長がここ東条城を訪れ、歌を残している。本丸にはその歌碑が建てられている。

▲ 本丸に建つ城址碑。

▲ 本丸搦め手門跡と土塁。

▲ 八幡社の建つ二の丸跡。周辺部に土塁跡がわずかに残っている。

▲ 本丸北東側に設けられた曲輪跡。右側の高台は本丸である。

▲ 二の丸から見た西方の風景。

▲ 東条城西方の耕作地に建つ「藤波畷古戦場」の碑。

▲ 城主吉良義昭の勇将富永伴五郎討死の地には後年(享保二年/1717)住民の手によって地蔵尊が祀られた。
----備考----
訪問年月日 2009年12月30日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「愛知県幡豆郡誌」他

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