せいりゅうじ
(せいりゅうじ)

                 浜松市天竜区二俣町         


▲ 切腹後、信康の遺骸は二俣城と地続きの蜷原の丘で荼毘に付された。ここ信
   康廟の墓は信康百回忌(延宝6年/1678)の際に建てられたものといわれている。

秀逸すぎた
       嫡男の悲劇

 徳川信康というより岡崎三郎信康のほうが皆に知られている。本来ならば徳川家康の嫡男として将来二代将軍となったであろう。しかしながら、若くして非業の最期を遂げてしまったのである。
 信康は家康がまだ駿府で人質生活を送っていた永禄二年(1559)三月六日の生まれである。幼名は松平家の嫡子に付けられる竹千代であった。母は今川家の一族関口刑部少輔義広の娘である築山御前であった。
 桶狭間合戦後、家康が三河において自立を目指した頃、人質交換によって無事、母子共々岡崎城へ入ることができた。今川に見切りをつけた家康は織田信長との連携を強めた。永禄六年、信康と信長の娘徳姫の婚約が成った。同十年、輿入り。信康、九歳のことであった。
 元亀元年(1570)、家康は遠江攻略のために浜松城へその居を移し、岡崎城は信康に譲った。
 天正元年(1573)、信康は三河足助に初陣。その後、長篠の戦い、遠江横須賀、小山、馬伏塚などへ家康とともに出陣して武田との戦いに活躍した。
 長篠合戦の後、
「軍の指揮、進退の鋭さ、成長ののちが思いやられる」
 と武田勝頼をして賛嘆せしめたほどである。
 小山城の戦いでは後詰の武田軍に包囲され撤退を余儀なくされたとき、信康は殿軍をかって出て奮戦、武田軍に大井川を渡らせなかった。
 こうした信康の武勇は近隣に聞え、その若武者ぶりは徳川家の将来に明るい希望をもたらすものであったといえよう。
 ところが信康のこうした成長を快く思わなかった男がいた。織田信長である。信長の嫡男は信忠である。織田、徳川ともにいずれは世代交代の時がくる。両雄は並び立たず、である。それが戦国の世でもある。織田家の安泰を図るには隣国に優れた武将は存在しないほうがよいのである。表裏離反は常に起きうることなのである。将来、徳川が謀反せぬとも限らない。自分の目の黒いうちは家康を押えることは出来るが、はたして信忠の器量で徳川を押えられるかとなると不安がつのる。
「ましてや、今川の血を引く母子である。今川にとって織田は怨敵である。ならば禍根は断つべし」
 信長の非情さは味方であろうと容赦はない。
 天正七年、徳姫の書状を携えた酒井忠次と奥平信昌が安土城の信長のもとへ赴いた。
本堂
▲ 清瀧寺本堂。切腹の翌年、家康はここ長安院に位牌堂
  と廟所を建立させた。後日、家康が訪れた際に寺の入
  口に流れ落ちる滝を見て、寺号を「清瀧寺」と改めた。
 書状の内容は夫信康の所業を十二ヶ条にわたって訴えたものであった。それは築山御前と信康の乱行ぶりと武田への内通の事実がある、というものであった。
 酒井忠次らの前に怒りをあらわにした信長があらわれた。
「信康に謀反の企てあり、信康に腹切らせるように家康に伝えい」
 青天の霹靂とはこのことであろうか、忠次の報告を聞いた家康も我が耳を疑ったにちがいない。しかしここで織田を敵にすれば、せっかく先祖の地三河を回復したのも水泡に帰してしまう。それどころか徳川家そのものが滅びてしまうことは間違いないであろう。ましてや武田と事を構えている今、織田の助勢なしではやっていけないのも事実である。
井戸櫓   信康廟入り口
▲ 武田軍が二俣城の水の手を断つために筏を流して破壊し  ▲ 信康廟入口の宝筺印塔。右から青木吉継(三方原合戦にて討死)、中根
  たという井戸櫓が復元されている。                   正照(同)、大久保忠世(二俣城主)、吉良於初(信康の小姓、殉死)である。
 八月三日、家康は岡崎城に行き、信康を説得した。
「武田に内通などと言いがかりであることは承知しておる。しかし、徳川家のために」
 苦渋に歪む父の顔を前にして、信康は黙って頷いた。
 翌日、信康は岡崎城を出て大浜に移り、九日さらに遠江堀江城に入った。そして十二日、二俣城に移り、謹慎した。二十九日、母築山御前が浜松へ移動の途中、佐鳴湖畔にて討たれた。
 九月十五日、天方山城守通綱、服部半蔵正成らが浜松城から二俣城へやってきた。検使役及び介錯人としてであった。この日が信康最期の日となった。信康は悠揚として切腹したが介錯人である服部半蔵は溢れ出る涙についに太刀を下ろすことが出来ず、天方山城守が代わって介錯した。
 秀逸にしてその武勇比類なしといわれた息子を自らの手で葬り去った家康、その日はひとり浜松城の天守から二俣城の方角である北遠の山並を望み、慟哭していたにちがいない。
----備考----
画像の撮影時期*2004/12