船山城
(ふなやまじょう)

県指定史跡

            長野県下伊那郡松川町上片桐       


▲船山城は片桐の地にあることから片切氏の城であったものと見られてい
るが、その詳細は不明である。築城当初は段丘先端部分のみであったが、
武田氏の伊那支配時代に段丘平坦部分に曲輪が拡張されたようである。
(写真・大手跡に建つ城址碑。)

新旧二つの縄張りを持つ城

 天竜川による河岸段丘の先端部を利用して構築されたこの城は山上に船を伏せたように見えることから船山城と呼ばれているが、史料に欠けており、築城者や城の歴史に関しては明確ではないらしい。しかし、片桐の地名から察して伊那源氏片切氏の城であったものと見られている。

 片切氏は平安末期に伊那谷北部発祥の伊那源氏の始祖源為公(ためたか)の第五子為基が当地片切に移住して蔵人大夫片切源八と名乗ったのを始まりとする。片切氏の庶流に名子、大島、岩間、赤須、飯島、前沢の諸氏が知られている。

 平治の乱(1159)では片切小八郎景重が源義朝に属して戦い、討死している。その後、平家全盛の時代となり片切郷の所領は没収されてしまうが、源頼朝による平氏追討の最中の元暦元年(1184)に景重の子為安が頼朝に召し出されて旧領を安堵された。承久の乱(1221)では源太長頼が京都で討死するが子の為頼には恩賞として美濃国彦次郷が与えられたといわれる。

 船山城が築かれたのは南北朝期であろうと見られており、城域の東側出丸(船山の丘陵部分)が当初の城であったとされている。

 室町期、片切氏は守護小笠原氏に属して大塔合戦(応永七年/1400)や結城合戦(永享十二年/1440/結城城)に出陣した。

 天文十一年(1533)、甲斐の武田信玄による諏訪、伊那に対する侵攻が始まった。片切氏は守護一族の小笠原信定(鈴岡城主)に属して武田氏に対抗する姿勢を見せたが、天文二十三年(1554)に信定は伊那を追われたため、信玄に降ることとなった。片切氏と共に降った飯島、大島、上穂、赤須の国衆は春近五人衆として五十騎の軍役に服したと言われている。

 船山城の本丸と二ノ丸(城畑の平坦部分)が拡張整備されたのは戦国期とされている。元亀二年(1571)に大島城が武田氏により大改修を受けているが、これに前後して船山城も拡張整備されたものであろうか。

 この当時の片切氏当主の名は不明であるが、隼人正政忠、同政公、小八郎長公、源七郎昌為、二兵衛尉為房といった名が記録に残されているようだ。

 天正十年(1582)二月、織田信長による甲州征伐によって伊那地方も織田軍の進撃路となった。片切氏は武田方として織田軍との戦いに参戦したが、破竹の勢いの織田軍の前には敵うはずもなく、あえなく滅んでしまった。

 残った一族は帰農したと言われている。他に遠江奥山郷(浜松市天竜区)にて徳川家康に属して北遠水巻城を攻めて代官となった片桐権右衛門家政がいる。


▲神社参道の西側の池。かつての堀跡とされている

▲戦国期に拡張整備された本丸と二ノ丸の平坦部分。現在は果樹園となっている。郭の中央に設けられている通路の東端に堀切があり、その先は出丸と呼ばれる山城部分となる。
 ▲大手跡に建つ城址碑。
▲城址北西隅の守護神・御射山神社。

▲長野県指定史跡の標柱。

▲神社前に建つ史跡碑と説明板。

▲長野県史跡・船山城跡の説明板。

▲城域は果樹園となっており、郭跡の中央を通路が東西に貫通している。大手跡から二之丸、本丸、出丸と曲輪が連なっている。

▲本丸跡。二之丸との間に浅くなった空堀跡が残っている。

▲本丸の東側は堀切を経て出丸となる。初期の船山城跡とされいる。

▲出丸土塁上の祠。
----備考----
訪問年月日 2015年8月14日
主要参考資料 「松川町HP船山城解説資料」他

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