帰雲城
(かえりくもじょう)

              岐阜県大野郡白川村       

帰雲城址碑
▲ 城址碑の背後に四百年以上たった今も崩落の痕を残している帰雲山。城の位置は
確認されていないが、地勢・堆積土砂等からしてこの周辺地域と推測されている。

忽然と現れ、
          忽然と消えた一族

 寛正年間(1460〜1465)の頃、信濃方面からここ白川郷に侵入してきた武士団があった。内ヶ島上野介為氏とその一党である。人数は二十人程であったとも云われている。その中には後に牧戸城主となる川尻氏や荻町城主となる山下氏らがいた。

 当時、飛騨は越中、加賀と同じく一向宗の支配する地域であり、殊に白川郷は無主の地で正蓮寺の支配するところとなっていた。

 はじめ牧戸に城を築いた内ヶ島一党はその後白川郷一帯に勢力を拡大しようとした。当然、一向宗正蓮寺との衝突は必至となった。長享二年(1488)為氏は正蓮寺を攻め、その道場(鳩ヶ谷)もろとも焼き払ってしまった。正蓮寺教信、明教の兄弟はそれぞれ討死または自害して果てた。

 一向宗を力でねじ伏せた為氏は新たに帰雲城を築いて移った。

 ところで、米の収穫のないこの地域をなぜ内ヶ島氏は押領していったのか。郷内を流れる庄川では最近まで砂金が採取できたという。内ヶ島氏は金の採掘技術を持った集団ではなかったか。いずれにせよ謎の多い集団である。

 文亀元年(1501)、北陸に逃れて成長した正蓮寺明教の子亀寿丸(明心)十五歳が突然帰雲城に現れた。敵討ちに現れたと思いきや、亀寿丸は為氏の孫(娘とも云われている)を嫁に貰い、正蓮寺を照蓮寺と改め再興したのである。内ヶ島氏側も争いよりも融和することを選んだのである。本願寺蓮如の仲裁があったとも伝えられている。

 いずれにせよ、その後は平穏な日々が続き、為氏の後は雅氏、氏利、氏理と代が続いた。

 天正十三年(1585)八月、戦国の荒波は飛騨の地にも例外なく押し寄せた。秀吉の命により飛騨平定の金森長近軍が進攻してきた。まず牧戸城が落とされ、さらに高堂城の三木自綱が降伏した。

 内ヶ島氏理は越中の佐々成政と同盟して出陣中で、留守の間の出来事であったのだ。急ぎ戻った氏理は鍋山城(高山市)の金森長近に会って謝罪した。この時、多量の金が贈られたという。そのせいか、白川郷の領地は安堵されたのである。

 十一月二十九日、突如北陸地方に大地震が発生した。マグニチュード8.1位と推定されるこの巨大地震は「天正大地震」と呼ばれる。この地震で帰雲山の半分近くが崩落、城と城下を一瞬にして埋没させてしまったのである。内ヶ島氏とその一党ことごとくが一夜にして消え去ったのである。合戦で滅びた一族は数多あるが、天変地異によって滅びた一族は他にしらない。

▲帰り雲神社。地震で埋没した地下の霊を弔うために建立された。

▲埋没者供養の観音像。

----備考----
訪問年月日 2005年8月9日
主要参考資料 「日本城郭全集」

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