土屋惣蔵片手切り
(つちやそうぞうかたてきり)

                山梨県甲州市大和町田野         


▲ 土屋惣蔵が崖道に立ち塞がって敵を防いだ場所も、現在では車で楽に通ることができる。

片手千人斬り

 この山道を登って行くと天目山栖雲寺(せいうんじ)に至る。この寺には武田家十三代当主の信満の墓がある。上杉禅秀の乱に加担して幕府軍に追われる身となりこの寺で自決したのである。
 それから百六十五年後、二十代当主武田勝頼が織田軍に追われてこの道を登っていた。天正十年(1582)三月十一日の朝であった。
 小山田信茂の反逆によって岩殿城行きを断念した勝頼主従五十余人は土屋惣蔵らの意見によって天目山にて最後の一戦に臨まんとしたのである。
 ところが敵はすでに深沢口(甲州市勝沼町)より天目山に先回りしていたのである。織田方の滝川儀大夫、篠岡平右衛門の一隊であった。さらに土豪の辻弥兵衛も手下を引連れて織田の先方に加わっていた。
 栖雲寺を目前にして勝頼は一夜を明かした田野の郷に引き返すことにした。道は日川に沿った崖淵に人一人が通れるだけの険阻なものである。武士たちはともかく、勝頼夫人とその侍女らには過酷なものであった。皆、足を血まみれにして歩いていたという。
 引き返すに際して土屋惣蔵昌恒は殿軍を引受け、道幅の最も狭まったところで織田軍を待ちうけた。やがて敵の先鋒が土煙を上げて迫ると、土屋惣蔵は岩角の藤蔓を片手で掴み、太刀を片手で振るって寄せ来る敵を片っ端から斬り伏せ、崖底の日川に蹴落とした。川の水は三日間赤く染まったという。まさに鬼神の如き奮戦であり、千人斬りの異名をもって恐れられたのも頷けるというものである。
 しかし土屋惣蔵も人間である。いかに屈強とはいえ体力にも限界がある。勝頼一行が田野の鳥居畑に柵を結い、形ばかりの陣を構えた頃、惣蔵は引き返した。主君の側で死にたかったのだ。
 やがて鳥居畑の陣に織田勢が殺到した。勝頼以下全員が自決または討死して果てた。
 土屋惣蔵は長篠合戦で討死した武田二十四将土屋右衛門尉昌次の弟である。離反者続きの武田家臣団のなかにあって最後まで主君と行を共にしえた惣蔵は誇りに満ちた死に様であったといえよう。

▲ 日川に面した崖淵に建つ遺跡碑。

▲ 石碑の脇の案内板には大正3年当時のこの場所の写真が載せられている。
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画像の撮影時期*2007/03