古木江城
(こきえじょう)

:            愛知県愛西市森川町村仲       


▲古木江城は長島の一向一揆を警戒して築かれた織田方の城である。信長の
弟信興が城主となったが、一揆勢の攻撃によって落城、切腹して果てた。
(写真・富岡神社の鳥居と城址碑。)

信興、無念の切腹

 元亀元年(1570)、この年六月に姉川合戦で大勝を得た織田信長であったが、浅井・朝倉両氏を屈服させるところまではできなかった。あろうことか、九月には浅井・朝倉両氏は三好三人衆の信長への反抗に呼応して近江宇佐山城を落として京都に迫ったのである。
 この状況に輪をかけて本願寺顕如が各地の一向宗門徒に触文を発して反信長の挙兵を命じたのである。
 長島城の願證寺証意は顕如の触文に応じて門徒を結集、周辺の砦を固めて反信長の狼煙を上げた。
 この長島一揆勢を警戒して信長の弟彦七郎信興がここ古木江に築城、二百余人を率いて守りに就いたのである。
 一方の信長は浅井・朝倉勢とこれを支援する比叡山に釘付けの状態(志賀の陣)となっていた。こうした状況下で長島の一揆勢が古木江城に迫ったのである。
 十一月十六日、弥冨の服部党などの門徒勢は古木江城を包囲、水の手を断つなどして攻城をはじめた。攻防六日目の二十一日、門徒勢は総門を打ち破って城内へ乱入するに至った。
 守将の織田信興は「一揆の手に懸かるは無念」と思い、天守(櫓)へ上って切腹して果てたと「信長公記」に記されている。

 古木江城の落城と信興切腹の報は桑名城で一揆勢に対応していた滝川一益によって信長に伝えられた。
 信長は翌年五月に長島一揆討伐の軍勢を発して願證寺を攻撃したが、頑強な抵抗に合い、撤収を余儀なくされた。信興の弔い合戦は果たせずに終わってしまったのである。
 しかし、信長の長島一揆に対する敵愾心の炎は消えることなく天正二年(1574)の討伐によって徹底的に攻め滅ぼしたのであった。
 この戦いで降伏した門徒の男女二万余人が焼き殺されたと言われている。


▲城址は鵜戸川東岸の富岡神社の地とされる。

▲城址近くには車の乗り入れができないため、対岸の道の駅「立田ふれあいの里」に駐車した。

▲道の駅から県道125号の橋を渡り、城址へと向かう。

▲神社鳥居近くに建てられた城址碑と説明板。

▲城址碑。

▲城址説明板。

▲富岡神社は城の鎮守としてあったと考えられている。
----備考----
訪問年月日 2015年4月18日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「改訂信長公記」他

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