七尾城
(ななおじょう)

国指定史跡、百名城

               石川県七尾市古城町      

七尾城址碑
▲ 本丸跡の城址碑と城山神社。

霜は軍営に満ち秋気清し

 明徳二年(1391)、管領畠山基国が河内、越中、能登の守護となったが応永十五年(1408)基国亡き後、次男満慶が能登守護として入国したことによって能登畠山氏がはじまる。

 満慶が何処に居館を構えたのか定かでないが七尾城址西麓(現古屋敷町)であったと思われる。満慶は居館背後の山を松尾、菊尾、亀尾、虎尾、梅尾、竹尾、竜尾と名付け、これをまとめて七尾と称した。この中の松尾に砦を築いたが、これがその後の七尾城のはじまりとなったのである。

 その後二代義忠、三代義統、四代義元と続くが、世情は戦国の様相色濃くなり、松尾の砦は山岳城塞と化してその規模は大きくなっていった。

 明応九年(1500)五代慶致は守護代遊佐氏によって擁立された。ここ能登も下克上の時代へと突入したのである。この頃から守護館をはじめ重臣らの屋敷も山上へ移り、七尾城は巨大山城へと変貌したのである。

 能登国内の争いも熾烈となり、天文十九年(1550)には七尾城下が焼失するに至った。そして畠山七人衆が領国支配の実権を握ってしまったのであった。

 守護畠山氏ももはや重臣らの政争の具に過ぎず、弘治二年(1556)には執事温井景長が九代義綱を追放しようとする事件が起きている。

 この事件は事前に発覚して景長は討たれ、代わって長続連が執事となった。永禄二年(1560)、温井一族による攻撃があったが、これを撃退、同九年酒色に溺れる義綱を追放してその長男義慶を擁立した。執事は続連の子綱連が継ぎ、旧臣遊佐、温井氏も帰服が許された。これで能登はひとつにまとまったかに見えた。長続連、綱連父子は七尾城の増改築にあたり、水の手の確保に苦心したがこれを克服している。

 しかし、遊佐続光と温井景隆の野望は消えておらず、天正二年(1574)守護義慶を毒殺して、わずか二歳の春王丸義隆を立てたのである。

 天正四年(1576)十月、かねてより上洛を果たさんとしていた越後の虎上杉謙信が和睦を拒否する七尾城下に布陣した。

 七尾城は百年にわたり改築発展を続けてきた城塞である。さすがの謙信も一気に攻め落すことはできず、包囲持久の戦いとなった。年が明けると関東の北条氏が動き出したため、謙信は三月に陣を払って兵を引き揚げた。

 長綱連がほっとしたのも束の間、七月に入ると再び越軍迫るの飛報が入った。急いで籠城の準備に取り掛かったが謙信の行動は素早かった。あっという間に城は包囲されてしまったのである。しかも城内に疫病が広がり、幼主春王丸が同月二十五日に死去、城兵も次々と斃れてしまった。綱連は弟連竜を密かに脱出させ、安土の織田信長のもとへ走らせた。

 謙信とて無為に包囲を続けていたわけではない。九月十日、遊佐続光に畠山の旧領を与えると内応をすすめる密書を送っている。

 十三日、遊佐続光は内応を決意して長一族を皆殺しにし、十五日開城したのである。一方、信長のもとへ走った長連竜は羽柴秀吉軍四千八百人とともに七尾近くまで来たが、すでに開城され、一族の首が晒されていることを知った。連竜は復讐を誓い、ここは退かざるをえなかった。

 二十六日、謙信は七尾城本丸に入り、遊佐続光の内応が決した日につくった「十三夜」の詩を吟じたと伝えられている。
「霜は軍営に満ち、秋気清し、数行の過雁月三更、越山併せ得たり、能後の景さもあらばあれ任他家郷の遠征を念ふ」

 その後、謙信は鰺坂長実を七尾城代として置いた。

 しかし、戦国の城塞としての七尾城はその後機能することなく天正九年、前田利家の入国と小丸山築城によってその幕を閉じた。
石垣
調度丸から望む石垣。石垣の間を登ると右側に桜馬場が広がり、左側に遊佐屋敷の跡がある。その上が本丸となっている。

▲説明版の鳥観図。
本丸
▲ 本丸跡の標高は約300mである。
七尾湾
▲ 本丸跡から七尾市街と七尾湾を望見。
----備考----
訪問年月日 2005年8月9日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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