御館
(おたて)

        新潟県上越市五智一丁目       


▲ 御館は上杉謙信が越後に落ちてきた関東管領上杉憲政のために造営したもの
である。謙信亡き後は後継をめぐって景勝と対立する景虎がここに立て籠もったが、
景勝勢に攻め落とされ、景虎は滅びた。(写真・御館公園に建つ史跡碑)

廃墟となった管領館

 ここは長尾景虎(上杉謙信)が関東管領上杉憲政を迎え入れたことにより、その居所として建造したもので御館(おたて)と呼ばれている。

 関東管領上杉憲政が北条氏康の攻撃に耐えかね、居城とする上野国平井城を脱して越後に逃れてきたのは天文二十一年(1552)正月のことであった。わずかな供廻りと管領家伝来の古文書百通余を背負い、深雪の上越国境を越えての亡命であった。義に厚い景虎は憲政一行を温かく迎え、直ちに管領家の居館、つまり御館の造営に取り掛かった。周囲に堀と土塁をめぐらせた方形の居館である。完成の時期は明確ではなく、弘治年間(1555-58)のことと見られている。

 関東管領職と上杉家の家督を譲られた永禄四年(1561)に景虎は上杉政虎と改名したが、この頃からであろうか、御館を政庁として使用したといわれる。

 天正六年(1578)三月、織田信長討伐の出陣を前に謙信は急死、義の戦いに明け暮れたその人生に幕を下ろした。

 謙信の死は唐突であったようで、倒れてから没するまでの四日間は意識の戻らぬままであったと言われ、後継者をどうするのか、謙信自身の指示の無いままであったようだ。この結果が謙信の二人の養子である景勝と景虎の争いに発展し、「御館の乱」となるのである。

 景勝は上田長尾家に嫁いだ謙信の実姉仙桃院の子である。永禄七年(1564)に叔父謙信の養子となった。一方の景虎は永禄十三年(1570)に後北条氏との同盟の際に人質として越後にやってきたもので、謙信の初名を与えられて養子となったものである。

 二人の争いは謙信の死の直後からはじまり、景勝側はいちはやく春日山城の本丸に移って金蔵や武器蔵を押えたと言われる。景虎側は屋敷のある城内三の丸に立て籠もり、国内外の支持固めの工作を進めた。五月に入ると形勢有利と判断した景虎は春日山城を退去して御館に移り、春日山城の攻撃を開始した。

 当初、後北条氏と同盟状態にあった武田勝頼が越後へ兵を進めるなどして景勝側にとって不利な状況となっていたが、金を贈り領土の割譲なども認めることで武田との和睦が成立した。七月頃のことである。この頃から景勝側が次第に優勢となり、景虎側の諸城を次々に落として景虎を窮地に追い込んだ。

 翌天正七年(1579)二月、景勝側は御館を包囲した。三月、前関東管領の上杉憲政が景虎の子道満丸を連れて和議のために御館を出、景勝陣に向かったが途中で景勝方の兵によって二人とも討取られてしまったという。

 やがて御館は景勝勢の攻撃で炎上落城した。景虎は妻子とともに御館を脱して関東を目指した。途中、景虎側である堀江宗親の鮫ヶ尾城(妙高市)に入った。ところが景勝側に寝返った堀江宗親に包囲されるに至り、景虎はついに妻子共々自害して果てた。

 発掘調査では武具、刀剣、かんざし、くしなどと共に多数の鉄砲の弾が発見された。鉄砲の弾は御館落城の際に飛び交ったものであろうか。


御館公園入口には史跡案内板や御館平面図、御館の乱の説明板、史跡碑などが設けられている

▲「御館の乱」説明板。
 ▲ 御館公園。ベンチなどが置かれているだけである。
▲ 説明板にあった御館跡平面図。御館公園はかつての主郭の一部である。

▲ 発掘調査の際に発見された鉄砲の弾、かんざし、くしの写真が説明板に載せられていた。
----備考----
訪問年月日 2012年5月3日
主要参考資料 「別冊歴史読本・上杉謙信の生涯」」
「直江兼続 史跡探訪」他

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