関ケ原古戦場 大谷吉継墓
(せきがはらこせんじょう)
(おおたによしつぐはか)

国指定史跡(大谷吉隆墓)

            岐阜県不破郡関ケ原町藤下    


▲関ヶ原合戦時大谷吉継は西軍の最右翼に布陣、小早
川秀秋の反応を一手に引き受けて壊滅、当地にて自害した。
(写真・国史跡となった大谷吉継の墓)

友情の関ヶ原

 慶長五年(1600)七月七日、佐和山城にて石田三成から家康打倒の秘事を打ち明けれ、当初は反対したもののその熱意に感じ、友としての情に命を懸ける覚悟を示した大谷吉継はその後、北陸越前の押さえに出陣、東軍徳川方として南進する加賀金沢城主前田利長の大軍二万余を鮮やかに撃退して八月中旬には居城の敦賀城へ戻っていた。

すでに三成から美濃路への進出を要請されていた吉継は兵糧と武具の補充を済ませると八月二十二日に越前衆の赤座直保、戸田重政の軍勢を加えて敦賀城を出陣した。その後、北国口の増援として余呉、木之本に滞陣中の小川裕忠、脇坂安治、朽木元網の軍勢とともに関ケ原へと進出した。

このとき、近江佐和山の南に軍を止めたまま動かずにいる小早川秀秋の姿勢に吉継は不穏なものを感じていた。

九月三日、大谷吉継は関ヶ原中山道口を押さえるように藤古川に沿って藤下の丘陵地に脇坂、朽木、小川、赤座の軍勢を配置、平塚為広、戸田重政そして子息の大谷吉勝、木下頼継らの軍勢を山中村北側宮上の高台に配置、みずからはさらに北側の石原峠付近に布陣した。

藤下の南側の松尾山では大垣城主伊藤盛政が三成の命を受けて陣地の構築作業を行っていた。大坂の毛利輝元を迎えるための陣地構築である。吉継も山中村の郷民を動員して西軍陣地の構築に取り掛かった。

着陣して数日後、吉継のもとへ大垣城の三成から近江を動こうとしない小早川のもとへ出兵の催促の使者を出すように依頼があった。吉継は平塚為広と戸田重政を使者として派遣した。平塚、戸田の両人は小早川秀秋の叛意が明らかであった場合はその場で刺し違える覚悟であったというが、病と称して面会がかなわず引き返している。

その小早川秀秋が動いたのが九月十三日であった。翌十四日、関ヶ原に入った小早川勢は陣地構築の進む松尾山から伊藤盛政らを追い出してそこに陣取ったのである。まさに本戦の一日前のことである。

この日、石田三成ら西軍勢の集結している大垣城の西北赤坂の岡山に徳川家康が三万の大軍を率いて着陣した。まるで小早川秀秋の松尾山布陣に合わせるかのようであった。

家康の到着を確信した三成はこの日の深夜に雨の中大垣城から関ヶ原に向かって移動を開始した。その軍勢は小西行長、宇喜多秀家、島津義弘、石田三成そして豊臣秀頼の直臣や黄母衣衆らである。南宮山南麓を迂回して夜明け前には関ヶ原西部の丘陵地に布陣した。左翼笹尾山に石田勢、その後陣に秀頼勢、北国街道口に島津勢、北天満山に小西勢、南天満山に宇喜多勢が順次布陣した。鶴が大きく翼を開いたような鶴翼の陣である。

三成ら西軍が大垣城を出た後、徳川家康もそれを追うように東軍勢を関ヶ原へと進め、一陣、二陣、三陣と多重の布陣で魚のうろこのような魚鱗の陣で西軍に対した。

大谷吉継も宮上の高地に陣を進め、大谷吉勝、木下頼継、戸田重政、平塚為広らを藤古川西岸に移動させ、決戦に備えさせた。吉継のみが小早川の動きに備えるかたちとなった。

九月十五日の夜が明けた。雨は上がったが関ヶ原一帯は濃霧に閉ざされている。東西両軍十数万の軍兵が対陣しているのであるが双方ともに相手の状況がつかめずにいた。

やがて陽が高くなるにしたがって霧が晴れると同時に猛烈な鉄砲の射撃音と共に先陣福島正則勢が南天満山の宇喜多秀家勢に向かって突撃を開始(開戦地)すると各戦線でも一斉に突撃が始まった。瞬く間に関ケ原一帯は銃撃音と硝煙、馬蹄の轟き、兵らの雄叫びで充満した。

藤古川岸の戸田、平塚、大谷吉勝、木下頼継らは左手に福島、宇喜多の激闘を横目に、東軍第二陣の襲来に備えていたところへ藤堂高虎、京極高知の軍勢が突進してきた。平塚、戸田らも果敢に応戦、300mほど押し返して不破関あたりにまで達したという。

東軍の藤堂、京極がひるむと山内一豊、有馬豊氏、蜂須賀至鎮の軍勢が加勢し、午前中は一進一退の戦況が続いた。笹尾山近くに布陣していた西軍の豊臣直臣衆の織田信吉(信長八男、戦後出家)、信貞(同九男、戦後家康に仕官)、長次(同十一男、戦死)らの一隊が平塚隊に加わって戦っている。

昼過ぎ、松尾山の小早川秀秋の軍勢が大谷吉継の陣へ向かって怒涛の勢いで打ちかかった。吉継の案じた通りに小早川は東軍徳川方への寝返りを鮮明にしたのである。吉継の陣は数百の手勢のみである。前線の平塚為広はすぐさま馬首を返して小早川勢の側面を突き、三度まで松尾山山麓まで押し返したという。

ところが脇坂、朽木、小川、赤座の四将までもが東軍に寝返り、大谷勢に攻め掛かった。藤古川から山中村にかけての戦場は両軍入り乱れての戦場となり、しだいに大谷勢は劣勢となり、戸田重政が織田有楽の長男長孝の一隊と乱戦となって討死した。平塚為広も討ち取った小早川勢の兜首に辞世の句を添えて吉継のもとへ送ると勇躍敵陣へ斬り込み、壮烈な最期を遂げた。

平塚、戸田の戦死後、吉継は宮上の陣所から山中へ後退して切腹して果てた。吉継の子吉勝と頼継も奮戦の末に戦場を離脱した。頼継は関ヶ原での戦傷が癒えず後日病死、吉勝は大坂城の秀頼に近侍、夏の陣にて戦死した。大谷勢の壊滅は宇喜多、小西勢の崩壊を招き、島津勢は敵中を突破して関ケ原を離脱した。残る笹尾山の石田勢も東軍勢の集中攻撃の前に総崩れとなり、三成は再起を期して戦場を離れた。

吉継は切腹に際して病に冒され崩れた「わが首を敵に渡すな」と介錯を近臣の湯浅五助隆貞に命じた。介錯後、五助は急いで主君の首を埋め隠したが、折悪しく藤堂高虎麾下の藤堂仁右衛門高刑(たかのり)に見られてしまった。五助はわが首に免じて主君の首を見逃して欲しいと頼むと、仁右衛門は「心得た」と五助を討ち取った。首実検の際に仁右衛門は家康から吉継の首の所在を問われたが、「湯浅殿との義、明かせませぬ」と五助との約束を守り通した。家康は「武功に勝るよきものをみた」と槍と刀を仁右衛門に与えたという。

合戦後しばらくして大谷吉継最期の地に藤堂家によって吉継の墓が建てられた。仁右衛門の発願であろうか、その仁右衛門も夏の陣で散った。

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▲大谷吉継陣跡。碑の裏側には急ごしらえの堀跡が残る。

▲「大谷刑部少輔吉隆碑」。吉継の墓の近くに建てられた顕彰碑。名が「吉隆」となっているのは吉継が戦いに臨んで改名したという江戸期の軍記からきているという。

▲大谷吉継陣跡散策利用者専用駐車場。

▲駐車場の道路の北側に鳥居があり、階段を上がると東海道本線の踏切がある。

▲踏切を渡ると若宮八幡神社である。

▲神社右手の案内に従って山中に入る。

▲途中、松尾山眺望地方面と吉継陣地跡方面に道が分かれる。まずは眺望地の方へ。

▲松尾山眺望地からの眺め。この眼前で小早川勢との死闘が展開された。

▲「宮上大谷吉隆陣所古趾」の碑。

▲陣跡からさらに300mほど山中を進むと吉継最期の地である。

▲右の五輪塔が合戦後藤堂家によって建てられた大谷吉継の墓である。左の湯浅五助の墓石は大正九年(1920)に五助の子孫によって建てられたものである。
----備考----
訪問年月日 2022年7月30日
主要参考資料 「陣跡が伝える関ヶ原の戦い」他

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