下社城
(しもやしろじょう)

        愛知県名古屋市名東区陸前町      


▲ 下社城は柴田勝家の誕生地として知られ、勝家が若き日々を過ごした城で
あった。勝家が越前北ノ庄城に移ったことにより廃城となったと言われている。
(写真・明徳寺境内からの展望と城址碑。)

若き日の柴田勝家の居城跡

 柴田勝家は享禄三年(1530)にここ下社城で誕生したと名古屋市教委の説明板(現地)にある。無論、別説もあって大永二年(1522)、同六年(1526)とあって明確ではない。元来、勝家以前の柴田氏そのものが判然としないのであるから仕方ない。伝えられるところでは尾張守護斯波氏の一族で、斯波高経四代の孫義勝が越後国新発田の城主であったことから柴田を称したと言われるが、あまり確実なものではないようだ。その孫の勝義の代には尾張の当地に土着していたものと思われ、勝家が生まれたとされる。
 十代の頃から織田弾正忠信秀に仕えており、信秀亡き後はその子信行(信勝)の家老として出仕した。
 信行は信秀の子で嫡男信長の弟であり、信秀の居城であった末森城を継いでいた。勝家のここ下社城と末森城の距離は4.5kmほどであるから騎馬であれば一時間とかからぬ距離であろうか。いざとなれば20分ほどで駆け付けられたのではないだろうか。
 その信行が弘治二年(1556)に信長打倒の兵を挙げた際(稲生の戦い)、勝家は千人の兵を率いて信行軍の主力となったほどであったから武将としてかなり期待される存在であったことは確かである。ところが、信長本陣に迫ったところで信長の大喝によって兵は浮足立ち、結局戦いは信行方の敗走で終わってしまった。戦後、信長は信行を赦し、勝家ら信行の家臣らも謝罪して信長への忠誠を誓ったと言われる。
 この翌年、信行はまたしても信長に対する謀反を企て、岩倉城の織田信安と通じて画策を始めた。「信長様に赦された恩を裏切るとは情けなきかな」と勝家は信行の器量の無さに失望したのではなかろうか。勝家は謀反の企みを清州城の信長に報じ、信行謀殺のきっかけを作った。

 その後は御存知の通り、勝家は信長の筆頭重臣として大活躍を続ける。特に戦場での働きは凄まじく、「瓶割り柴田」「鬼柴田」の異名をとるほどの猛将ぶりを発揮した。
 天正三年(1575)には越前一向一揆平定の功により越前八郡四十九万石を与えられ、新築の北ノ庄城に移った。勝家はここで北陸方面の軍団長を任され、加賀平定と対上杉戦に従事することとなる。
 勝家は一族を挙げて北ノ庄へ移転したものと思われ、下社城はこの時点で廃城となったと一般的に言われている。
 現在、城址には明徳寺が建ち、遺構といえるものは見られないが、市街地の中の小高い丘という地形が土豪柴田氏の要害であったことを物語っている。


▲明徳寺入口の石段を上った山門前に建てられた「柴田勝家公誕生地」の碑と説明板。
▲丘の上にある明徳寺。かつての下社城跡である。
▲明徳寺が当地に移転したのは寛文二年(1662)である。石段を上った山門前の左右に勝家誕生地と城址碑が建っている。

▲柴田勝家の誕生地の碑。

▲城址碑。

▲明徳寺本堂。かつての本丸跡といわれる。

▲明徳寺からの眺め。右の高架は名古屋第2環状自動車道。
----備考----
訪問年月日 2013年11月2日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
 「日本城郭全集」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ