聖徳寺跡
(しょうとくじあと)

市指定史跡

            愛知県一宮市冨田字大堀       


▲聖徳寺跡は戦国期に舅の斎藤道三と婿の織田信長が会見をした所である。
(写真・聖徳寺旧跡の碑)

親愛の絆

織田信長が生まれたのは天文三年(1534)のことである。この頃、信長の父信秀は尾張下四郡を従え、尾張を代表する実力者となっていた。しかし尾張を取り巻く情勢は楽観できるものではなく、美濃の斎藤道三との抗争に加えて三河の松平氏と同国へ勢力を拡大している今川氏との争いが激しくなっていた。まさに腹背に敵を抱える状況にあったのである。

こうした状況を打開しようと、天文十七年(1548)、信長十五歳の時、信長付の家臣平手政秀の才覚で道三の娘を嫁に迎えた。美濃との和睦である。道三の娘は濃姫または帰蝶と呼ばれることが多い。

この頃の信長の行状について「信長公記」にこうある。「馬を朝夕御稽古、又、三月より九月までは川に入り、水練の御達者なり」また「竹鑓にて叩き合ひを御覧じ、兎角、鑓はみじかく候ては悪しく候はんと仰せられ候て、三間柄、三間々中柄(三間半柄)などにさせられ」とある。乗馬と水泳は日常的に鍛錬、竹槍による合戦訓練では長い槍が有利として三間以上の長槍を揃えさせた。そして信長自身の格好はというと「明衣(ゆかたびら)の袖をはずし、半袴、ひうち(火打ち)袋、色々余多付けさせられ、御髪はちやせん(茶筅)に、くれない糸、もえぎ糸にて巻き立て、ゆわせられ、大刀、朱ざやをささせられ」とある。また、街中で柿や瓜をかぶりつき、餅を立ち食い、人に寄りかかりといった具合である。天文二十一年(1552)の父信秀の葬儀の際にはいつものいで立ちで現れ、抹香を手づかみで仏前に投げつけて帰ったという。

こうした信長の行状や恰好から世間では「大うつ気」との評判がもちきりとなり、当然こうした評判は道三の耳にも入ってくる。さすがの道三も舅として信長が「うつけ」であるのか、その真偽を確かめたくなって当然であろう。

天文二十二年(1553)四月、道三は富田の聖徳寺で対面したいと信長に伝えた。聖徳寺は濃尾の国境にあり、美濃・尾張両守護不入の特別領域であったから会見場所としては双方ともに好都合であったといえる。道三は七、八百人を従え、折目高い正装の家臣らを聖徳寺御堂の縁に居並ばせて信長を待った。

そして道三は町末の小屋に忍んで物陰から信長の行列を盗み見ていたという。信長も七、八百を従え、三間半の長槍五百本、弓・鉄砲五百挺を持たせていた。信長の格好は噂通りの袖なし、すね丸出しの半袴姿で腰回りには火打袋や瓢箪を七つ、八つぶら下げていた。天を突くような長槍と鉄砲の数には驚いたが、「うつけ」然とした信長にそれを使いこなすだけの力量があるのか、道三はこの変わり者の若者を見極めなければと寺へ戻った。

さて寺に着いた信長は髪を折曲げに結い直し、着物も正装で長袴、小刀を差して居並ぶ斎藤家臣らの前をするすると進み出でたという。「うつけ」の格好から一転して礼儀をわきまえた正装での登場に居並ぶ斎藤家臣らは「さては、たわけをわざと御作り候よ」と肝をつぶしたという。信長は縁の柱にもたれて道三の登場を待った。

しばらくして道三が屏風を押しのけて現れた。しかし信長は知らぬ顔である。仲介役の堀田道空(斎藤家臣とも言われるが詳細は不明)が「これぞ山城殿(道三)にて御座候」と信長に告げた。信長は「であるか」と堂内の座敷に入り、道三と対面、挨拶を交わし、湯漬けを食し、盃を交わした。どのような会話が交わされたかは分からないが、信長公記に「附子をかみたる風情にて」とあり、苦虫を咬みつぶした感じで対面は終わったようだ。談笑して意気投合したといえるようなものではなかったのである。

それでも道三は廿町(約2km)ばかり信長を見送ったらしい。三間半の長槍に鉄砲、「ここで戦となればわしの負けじゃ」と道三は思った。そして遠ざかる信長の背を見ながら「わしらとは違う」とつぶやいた。古い室町体制を打ち破って下剋上を成し遂げた道三であったが、信長はそれ以上に異質の存在に思えた。帰り道、家臣の猪子兵介が「どう見てもたわけでござりますな」と道三に告げた。道三は「わが子等はそのたわけが門外に馬を繋ぐことになろうよ」と答えたという。それ以後道三の前で「たわけ」と言う者はなくなったらしい。

この会見の翌年、信長は今川方が知多に築いた村木砦を攻め落としている。この時、信長は那古野城の守りを道三に求めたのである。居城を空にして出陣できる状況ではなかった。清州城の守護代織田氏が隙あらばとねらっていたからである。道三は家臣安藤伊賀守守就に兵千を添えて那古野城の守備に送り、信長を援けた。信長は多くの犠牲を払いながらも道三後援のおかげで今川勢を駆逐できたのである。安藤伊賀守は帰国して信長の戦振りの一部始終を報告したという。

聖徳寺の会見から三年後、道三は家督を譲った長男の義龍との対立が激しくなり、家臣の多くも離反していた。義龍との戦いが避けられぬと悟った道三は出陣の前日に遺言状を末子の斎藤利治に与えて、長良川の戦場に斃れた。遺言状には信長に美濃国を譲る旨が記されていたという。信長は舅道三の危機を救うために急ぎ兵を率いて美濃を目指したが木曽川を渡った所で道三敗死の知らせを受け、引き返した。「必ずこの仇は討つ」信長は固く誓ったに違いない。

いつしか道三と信長の間は親子以上の親愛の絆で結ばれていたといえる。それもこれも聖徳寺の会見が発端となっているのだ。


▲現在の聖徳寺跡とそのバス停。

▲一宮市指定史跡の説明板。

▲「聖徳寺旧跡」の碑。

▲道三と信長の会見を伝える石碑。

▲聖徳寺跡。
----備考----
訪問年月日 2023年2月21日
主要参考資料 「改訂信長公記」他

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