高梨城
(たかなしじょう)

国指定史跡

            長野県中野市小館4    


▲高梨城は北信で勢力を拡大した高梨氏が根拠地として築いた城館である。
戦国期には上杉氏を後ろ盾として武田氏との抗争を続けたが、城を維持できずに
飯山城へ後退した時期もある。現在は高梨氏館跡として国の史跡となっている。
(写真・城址南面の空堀と土塁。)

北信の旗頭

 平安時代のことである。清和源氏の源頼季が信濃国井上郷(長野県須坂市井上)に土着した。高梨氏は頼季の孫盛光が高梨郷(須坂市高梨)に住して高梨氏を名乗ったことに始まるとされる。源平争乱期には木曽義仲に従って転戦、高梨忠直は義仲四天王に数えられ活躍した。鎌倉期には御家人として高梨次郎の名が見え、南北朝期には南朝方との戦闘に高梨経頼、時綱といった名が登場する。この頃には勢力を拡大して封建領主としての有力国人となっていた。拠点は高梨郷から北進したくぬぎ原(須坂市都住付近)にあったとされる。

室町期の大塔合戦(応永七年/1400)では高梨氏は盟主村上氏と同数の五百余騎で参戦しており、北信の旗頭的存在になっている。その後も勢力の拡大は続くが、同時に惣領としての権力強化も図られ一族の被官化も進められた。

寛正四年(1463)、高梨政高は越後守護で信濃半国守護となった上杉房定の討伐を受けるが、これを撃退して守護方の土豪大熊、新野の両氏も放逐、所領を拡大した。

政高の次代政盛の時には本拠地をさらに北進させて間山(中野市間山)に移っている。政盛は越後守護代長尾能景に娘を嫁がせて関係を強化した。能景の子為景が守護代となり、守護上杉房能を自刃に追い込み越後国内は争乱(永正四年/1507)状態となり、高梨政盛もこれに介入して為景を援け、勝利に貢献した。

永正九年(1512)、政盛は拡大した高梨氏の領域の中に残る中野郷の攻略に踏み切り、中野氏を滅ぼして本拠地を中野小館に移した。以後、当地が高梨氏歴代の拠点となる。翌永正十年(1513)、政盛没して嫡子澄頼が継ぐ。

澄頼の代には長尾為景と守護上杉定実との対立が激しくなり、北信においても近隣諸豪の多くが守護方に付いたため、その勢力は減退したとされる。

澄頼の子政頼は長尾為景の力によって北信の反抗勢力を平定して勢力を回復した。しかし、天文二十二年(1553)からは武田晴信による北信(川中島)攻略が活発となり、敵対関係にあった村上義清(葛尾城主)と和睦して武田氏に抗したが、やがて村上氏が越後へ退去、近隣の国衆も武田方になびいて高梨氏の周辺は危機的な状況となっていった。

この後、政頼は北方の飯山城へ後退、北信の旗頭として諸将を糾合、越後の長尾景虎を頼りに対武田戦線を形成することになるが、その時期に関しては明確でないようだ。村上義清が敗走して葛山城が落城した頃とも思われるが、高梨城自体はその後も維持されていたのであろうか。

永禄二年(1559)、武田方の川中島における前線拠点である海津城(松代城)の高坂昌信によって高梨城は落城したと言われる。その後、川中島をめぐる上杉謙信と武田信玄の抗争は幾度も繰り返されるが勝敗を決するに至らなかった。

天正六年(1578)、謙信亡き後の家督争い(御館の乱)で上杉景勝は武田勝頼と和睦して景虎に勝利した。このため北信は武田領となる。天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると川中島地方は織田家臣森長可の支配下に置かれるが、これも束の間で本能寺に信長が斃れると北信地域は上杉景勝の支配下に置かれた。

この時、上杉氏に従って北信から離れていた諸氏は旧領に復帰したといわれ、高梨氏も中野の城(高梨城)へ復帰したとされる。政頼の後の頼親の代である。

頼親は上杉家臣として景勝に仕え、文禄・慶長の役では上杉軍として渡海して活躍した。慶長三年(1598)、上杉景勝は会津転封となり、高梨氏もこれに従い、北信の地を離れた。高梨氏はその後も上杉家臣として続き、米沢藩士として明治に至っている。

高梨城は頼親が会津へ移った後、中野地域は天領となり、陣屋が置かれたが城跡は放置されたようだ。


▲主殿跡南側に造られた庭園跡(復元)。

▲昭和62年(1987)から6年にわたる発掘調査の後、建物跡8棟が検出されている。

▲城址南側の駐車場。

▲城址入口へと向かう。。

▲国指定史跡を示す城址碑。

▲城址入口。

▲南面の空堀と土塁。

▲同じく南面の堀と土塁。

▲城内へ。

▲城址は方形単郭で建物跡と水路跡などが整備されている。

▲井戸跡。

▲東面の土塁。

▲東面の堀と土塁。

▲東面土塁内側の建物跡。

▲土塁の断面図。初期は築地塀であったものが後に土を被せられて土塁となったことが分かる。

▲「高梨小館城址」と彫られた城址碑。

▲城址東にそびえる山は詰城として築かれたとされる鴨ヶ嶽城跡である。
----備考----
訪問年月日 2019年10月20日
主要参考資料 「信州の城と古戦場」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ