垂井城
(たるいじょう)

            岐阜県不破郡垂井町    


▲垂井城は関ケ原合戦の年に平塚為広が入部した際に築かれたとされる。
(写真・推定地である専精寺境内に建つ城址碑)

平塚為広、三成に合力する

豊臣秀吉の馬廻りとして、また秀吉亡き後は秀頼に近侍して豊臣家に仕え続けてきた平塚因幡守為広は慶長五年(1600)に美濃国垂井一万二千石に封じられて大名に列した。為広は大力で知られ、太身の太刀や薙刀を振るう豪勇の士であった。

平塚氏の出自は相模国の三浦氏の一族で平塚郷を賜ったことから平塚姓を名乗ったとされる。鎌倉時代に入る前のことであろうか。その平塚氏がどういう経緯で美濃に来住したのかはわからない。為広自身は若き頃、明智光秀に仕えていたとも言われており、戦国期には美濃に居住していたものと思われる。

ここ不破郡垂井には鎌倉期から長屋氏が屋敷を構えて勢力を張っていた。長屋氏も相模国の出身で、承久の乱(1221)の戦功により長江胤明が同国長屋郷を賜わり、その子行景が長屋氏を称したことに始まる。行景の子景頼のときに美濃国へ移り、代々垂井に住して守護土岐氏に仕えた。戦国期には景頼の八代の孫景興が大野郡(現・揖斐郡)相羽城に移り、土岐頼芸に仕えたが天文十四年(1545)に斎藤道三に攻められて子景直とともに討死して滅んだ。

慶長五年(1600)に戻ろう。平塚為広が垂井に入部した際に長屋氏の屋敷跡を利用したものか、或いは新たに居館地を選定したものなのかは不明である。現在、垂井城址の碑が建つ専精寺と長屋氏屋敷跡の碑との距離は僅かに250mほどである。両者ともに遺構は無く、垂井城の方は推定地であるからどの程度の城であったのかすらも分からない。いずれにせよ、この付近の微高地に万石の大名に相応しい居館が築かれたはずである。

この年六月、徳川家康は会津征伐のために関東へ下った。大方の大小名らも従軍を競うようにして家康の後に続いた。

七月二日、越前敦賀城主二万石の大谷刑部少輔吉継も会津征伐に従軍すべく手勢を率い、かねてより親交の深かった垂井の平塚為広の館に到着した。吉継はここで年来の友である蟄居中の石田三成の嫡男隼人正重家を待ち、為広とともに関東へ向かうつもりであったのだ。

ところが三成は自身の居城である佐和山城へ吉継と為広を呼び、家康討伐の計画を打ち明けたのである。吉継、為広ともに口を揃えて「やめておけ」と反対したが、三成の決心は固く、終には合力を約してしまった。吉継は友のために死ぬことを選んだのである。為広も吉継の決意に感じ入り、合力を約した。

七月十一日、軍勢を招集した平塚為広は大谷吉継の軍勢とともに琵琶湖を見下ろす佐和山城へ入城した。ここで吉継は北陸の押さえに出陣、為広は三成とともに大坂へ向かって伏見城の攻略に参加した。その後、為広は関ケ原で再び吉継と合流、天下分け目の大戦に臨むことになる。

 垂井城の名はその後出てこない。平塚為広による築城は緒に就いたばかりで城の体裁をなしていなかったのだろうか。

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▲関ケ原合戦時に小早川秀秋らの裏切りによって戦況が不利となると平塚為広は辞世の句を大谷吉継に送って敵中へ斬り込み、壮絶な最期を遂げた。

▲城址の説明板。

▲専精寺は周辺より小高い地形にあり、垂井城址の推定地となっている。

▲専精寺境内の鐘楼の脇に城址碑が建つ。

▲城址碑。
----備考----
訪問年月日 2022年5月3日
主要参考資料 「関ケ原」他

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