和田城
(わだじょう)

市指定史跡(遠山土佐守一族墓碑)

            長野県飯田市南信濃和田    


▲和田城は戦国期、この地域に繁栄した遠山氏三代の
居城で、盛平山山麓の台地上に築かれた平山城である。
(写真・和田城の築かれた盛平山と遠山川。)

山間に繁栄した遠山三代

 和田城を築き、その初代となったのが遠山遠江守景広である。景広以前の遠山氏の事績についての詳細は不明な部分が多い。鎌倉時代末期(嘉暦四年/1329)には地頭として信州遠山氏の名が記されている(諏訪上社文書)と言われ、応永七年(1400)の大塔合戦には遠山出羽守が参陣しているという。山峡という地理的な環境もあり、その行動範囲も広範なものではなかったようだ。それでも近隣土豪との軋轢は避けられなかったようで、和田の街道周辺には多くの城砦が築かれている。

 遠江守景広は知久氏(神峰城/飯田市上久堅)、下条氏(吉岡城/下伊那郡下條村)、奥山氏(高根城/浜松市天竜区水窪町)と関係を持ち、関氏(権現城/下伊那郡阿南町)とは対立していたらしい。

 天文十一年(1542)から始まった甲斐の武田信玄による信濃侵攻によって天文二十二年(1553)には北信を除く信濃全域がその支配下に収まり、遠江守景広もこの年に信玄の麾下に服した。

 永禄十二年(1569)、信玄は駿河へ侵攻して今川氏を滅亡に追いやった。この年、北遠(遠江国北部)の奥山氏内部では親武田派の水巻城(浜松市天竜区佐久間町)主奥山定茂が兄弟の城を次々に攻略して惣領の奥山定益の居城高根城に迫ろうとしていた。遠江守景広は奥山定茂とは縁戚関係にあり、すぐさま出兵に踏み切り、高根城を攻め落としてしまった。

 その後、遠江守景広は武田軍団の信濃先方衆として三河、遠江の戦陣に加わり、軍糧輸送などの大任を果たしたと言われる。しかし、信玄亡き後の武田氏は長篠合戦(天正三年/1575)大敗後は退勢となり、遠江では徳川家康の攻勢が続き、天正九年(1581)には北遠に進出していた遠山勢も青崩峠を越えて和田に撤収したようだ。

 天正十年(1582)、織田信長による武田征伐が開始されると遠江守景広は一族八人と被官百三十余人を率いて武田勝頼の弟仁科盛信の守る高遠城に馳せ参じ、籠城軍に加わった。織田勢との激戦で高遠城は落城、遠江守景広以下遠山景俊、遠山刑部、遠山弥蔵、知久霜助、佐藤、後藤、近藤らが討死したと伝えられている(一説に景広は鎌倉へ逃走して客死)。山間の小土豪でありながらも武田氏に臣従して三十年、その恩義に報いた壮絶な最期であったと言える。

 武田氏滅亡後、下伊那の支配は織田氏から徳川氏に替わり、天正十二年(1584)には景広の後継である遠山土佐守景直に領地が安堵された。翌年の徳川家康による上田城攻めには土佐守景直も出陣して徳川の軍陣に加わっている。

 慶長元年(1596)、土佐守景直は岡崎城において家康に謁見を許され、遠山六ヶ村ほか赤穂(駒ケ根市)、箕輪(箕輪町)、福島(伊那市)、大草(中川村)、大河原・鹿塩(大鹿村)など合わせて三千五百石に加増された。この謁見の際に景直は家康から食事を賜った。景直は茶碗を左手で隠して食し、終わると箸を茶碗の上に渡して置いた。家康がその作法の訳を聞くと景直は「遠山は山間ゆえ米がとれませぬ。身分の上下にかかわらず皆、麦や粟を食してござる。よって貴人の前では恥じて隠しながら食するのがならわしとなっておりまする」と答えたという。家康は気の毒に思い、千石を加増して「茶碗の上に箸を置いた形を家紋とするがよい」と沙汰したと伝えられている。

 慶長十九年(1614)、土佐守景直は大坂冬の陣と翌年の夏の陣に出陣して戦功を挙げる。夏の陣から帰郷して数ヵ月後、土佐守景直は和田城にて病没してしまう。

 景直の後、嫡男加兵衛景重が継いだ。しかし病弱の為、元和三年(1617)に病死してしまった。景重には子がなく、飯田藩家臣二木勘右衛門の次男小平次を養子としていた。景重死後、景重の弟長九郎景盛と養子小平次との間で相続争いが起きてしまった。幕府は小平次八百石、景盛五百石と裁定したが、景盛がこれを不服としたため、所領没収、取り潰しとなり天領としてしまったのである。

 戦国争乱の時代を山間の地で生き抜いた遠山氏も三代で滅び去ったのであるが、「遠山騒動」と呼ばれる圧政に耐えかねた百姓一揆によって和田城が襲われ、滅亡に至ったとの言い伝えも残されている。また、土佐守景直の弟で豪勇で知られる新助景道が大河原(大鹿村)で圧政に苦しんだ領民によって襲われ、殺害されたとの伝説もある(元和八年/1622)。

 遠山氏繁栄の陰で困窮に苦しむ領民の姿がそこにあったことも事実であろう。後に領民たちは「遠山の霜月祭り」に遠山氏の鎮魂の儀式を加えて現在に至っているのである。

▲遠山土佐守一族の墓碑。階段の正面にある石塔群が墓碑である。その背後の巨大な杉は樹齢500年といわれている。

▲遠山郷土館の前庭にある「徳川家康・遠山土佐守対面の場」像。

▲城郭風の「遠山郷土館」。

▲郷土館から眺めた和田の町並み。

▲龍淵寺本堂。かつての本丸跡とされる。開創は大永1年(1521)であるが慶安年中(1648-52)に城跡へ移った。

▲龍淵寺の山門。

▲龍淵寺境内の城址標柱。

▲出丸跡に建つ「光堂」。細長く突き出た地形になっている。
----備考----
訪問年月日 2019年4月20日
主要参考資料 「南信濃村年表」
「信州の城と古戦場」他

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