吉田松陰踏海企ての地
(よしだしょういんとうかいくわだてのち)

          静岡県下田市柿崎        


▲ 吉田松陰と金子重輔が黒船に向かって小舟を漕ぎ出した弁天島から見た下田湾。
ペリー艦隊の旗艦ポーハタンは正面の犬走島付近に投錨していたようである。

一見は百聞に超ゆ

 嘉永七年(1854)三月十八日、すでに日は暮れていたが、二人の若い武士が下田湾の浜辺に立った。湾内に投錨していたペリー艦隊を確認した長州出身の二人はこの夜、岡方屋(現・下田屋旅館)に投宿した。二人の名は吉田寅次郎矩方(号松陰)とその弟子金子重輔であった。
 前年の六月、ペリーは蒸気船二隻と帆船二隻の艦隊で江戸湾浦賀沖に現れ、開国を促す大統領の親書を幕府に渡すと再来を約して去った。この黒船来航で江戸は大騒ぎとなり、海防と軍備の近代化が急務となった。まさに国の存亡に関わる一大事であった。こうした危機意識が若き松陰を国禁を犯してでも外国の探索に海を渡るべきであると決断させたといえよう。
 翌七月、プチャーチンのロシア艦隊が長崎に来航したとの情報に松陰は行動を起こした。ロシア艦に乗り込み、密航するのである。師の佐久間象山も「一見は百聞に超ゆ」と送別の詩に託して松陰の壮挙を後押しした。
 しかし、松陰が長崎に至った時にはロシア艦隊の姿はなく、この時の渡航は実現しなかった。
 空しく江戸に戻った松陰は鳥山塾に寄宿していた金子重輔と出会う。松陰二十五歳、重輔二十四歳であった。
 年明け正月十六日、ペリーが蒸気船三隻、帆船六隻で浦賀沖に現れた。三月三日、ついに日米和親条約が横浜村に於いて締結された。松陰は今度こそと重輔とともに密航の機会を窺ったが果たせぬまま、ペリー艦隊は江戸湾を去ってしまった。
 ペリー艦隊は条約の細則を定めるために開港地となった下田へ向かったのである。松陰と重輔は艦隊を追って熱海、伊東を経て陸路を急いだ。そして下田の浜に着いたのが十八日であったのである。
 二十日、気は急くものの機を得ず。松陰は疥癬(皮膚病)に悩まされていたため、やむなく蓮台寺村の温泉場に出向いた。
 村中が寝静まった夜中、村の共同浴場に入っていた松陰は村の医師村山行馬郎と出会う。不審者と思われてはと松陰は密航の企てを村山行馬郎に打ち明けた。国を憂う一途な思いに胸を打たれた行馬郎は自宅の温泉を引いた風呂を使わせ、天井裏の一室を松陰に与えてその壮挙を援けたのであった。
 松陰と重輔は役人の目を避けて夜ごと浜に出ては機を窺ったが、いたずらに日が過ぎていった。
 二十五日夜、松陰と重輔は意を決して稲生沢川河口から小舟を漕ぎ出した。しかし、湾内とはいえ波浪が高く、思うように舟が進まない。小舟は波に押し戻されるようにして柿崎の浜に着いてしまった。浜の先に小さな島がある。弁天祠があることから弁天島と呼ばれていた。二人はこの夜この祠で夜を明かした。
 翌日は雨であった。二人は外浦の上の山(海岸から400m付近の内陸か)で過ごした。
 二十七日、松陰らは上陸中の米国人に渡米嘆願の手紙を渡すことに成功した。しかし、夜になっても迎えのボートが来ない。弁天島の祠から身動ぎせずに湾内を見つめる松陰と重輔の姿が想像できよう。このままでは夜が明けてしまう。こちらから黒船に乗り込むほかない。

▲ 弁天島の西側に建設された公園兼防波堤の先端に建つ吉田松陰と金子重輔の銅像。題は「踏海の朝」である。
 「金子君、行くぞ」
 松陰と重輔は近くの浜の小舟を押し出して飛び乗った。ところが、櫓杭が外されていたために櫓を固定して漕ぐことができない。二人は褌を解いて櫓を船縁に結わい付け、風浪の中、黒船を目指したという。
 疲労困憊、やっとのことで弁天島に最も近く投錨していた蒸気船ミシシッピーに辿り着いたが、旗艦ポーハタンに行けと降ろされてしまった。
 二人は慣れぬ櫓を懸命に操ってポーハタンの舷側に小舟を着けた。
 甲板に上がった二人を通訳官のウイリアムズが応対した。昼間松陰らが米人に渡した手紙の内容はペリーにも伝えられており、ウイリアムズも知っていたという。ウイリアムズは日本の国法を破って二人を米国に連れては行けぬとのペリーの意思を松陰らに伝え、速やかに戻ることをすすめた。小舟は流されて無くなっていたため、ポーハタンの短艇で二人は岸に返されてしまった。
 返された岸は湾の東側で福浦という所であった。失意と落胆のうちに夜が明けた。流された小舟には二人の刀と手荷物が残されている。これが奉行所に押さえられては恥である。
 松陰は潔く自首すべきと意を決し、柿崎村名主平右衛門宅に名乗り出た。
 松陰と重輔は下田番所で取り調べを受け、拘禁された。取り調べに際して松陰は国家のため異国の情勢を探知するための企てであったことを堂々と説いたという。
 四月十一日、松陰と重輔は縄をかけられ、唐丸籠で江戸の獄へ送られた。
 その後死罪ではなく国元蟄居となり、松陰は萩の野山獄へ、重輔は岩倉獄へ入れられた。残念ながら重輔は体調を崩して獄死してしまった。
 翌安政二年(1855)暮れ、松陰は実家杉家蟄居となって獄を出、松下村塾を開く。この塾から久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允といった逸材が輩出されたことは周知のことである。
 安政六年(1859)五月、安政の大獄の嵐の中、松陰は再び江戸の牢獄に入れられた。十月二十七日、死罪となって首を斬られた。享年三十歳の短くも壮絶な生涯であったといえる。
 ▲ 吉田松陰偶奇処として残る村山邸。湯治に来ていた松陰を医師村山行馬郎は踏海決行まで匿った。
▲ 村山邸の屋根裏部屋が松陰隠れの間として残されている。昼間はここに居て夜になると下田の浜へ出かけていたと言われる。

▲ 三島神社境内の吉田松陰の像。戦時中に建てられたため銅像ではなくセメント彫刻である。

▲ 幕末当時は島であった弁天島も今では陸続きとなっている。

▲ 弁天島公園から見た弁天島。

▲ 弁天社。踏海決行の夜、松陰と重輔はここで米艦からのボートを待った。

▲ 弁天社前に建つ松陰七生説の碑(左)と金子重輔行状碑(右)。そして市指定史跡の標柱。

▲ 弁天島から眺めた黒船?。これは下田湾の遊覧船で、黒船を模したサスケハナ号である。

▲ 弁天島から西側に張り出して建設された公園。防波堤を兼ねている。

▲ 弁天島公園の「踏海の朝」の銅像とともに設けられた碑には下田湾に停泊する黒船の位置が示されている。

▲ 弁天島公園に立つ説明板に描かれた絵。松陰と重輔が黒船に向かって漕ぎ出した緊迫の場面である。櫓が布きれで縛られている。

▲ 吉田松陰が自首して最初に拘禁された場所。
----備考----
訪問年月日 2011年1月3日
主要参考資料 「下田の歴史と史跡」
 ↑  「吉田松陰・下田の史跡とその生涯」
 ↑  「世に棲む日日」他

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