波賀城
(はがじょう)

市指定史跡

        兵庫県宍粟市波賀町上野      


▲ 波賀城は当初芳賀氏の城であったが鎌倉期に地頭となって入部した
中村氏の居城となり、戦国期に本格的な山城に強化されたものであろう。
(写真・山頂部分に復興された二層櫓。)

波賀の地に三百年、
          中村氏二十代の古城

 波賀城の創築は弘長年間(1261-63)にこの地域の有力者であった芳賀七郎によるというのが通説となっている。平安時代、この地域は石清水八幡宮の荘園となっていて伯可荘と呼ばれていた。芳賀氏はこの荘園の開発領主として勢力を張っていたものと思われる。芳賀七郎は鎌倉初期の武士であったようだが、その後は武蔵国出身の中村氏に領主の座を取って代わられている。

 芳賀氏の滅亡に関しては「名馬伝説」となって言い伝えられてきている。現地説明板によると「その昔、芳賀七郎という武士がおりました。彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました…」とある。名馬云々はともかくこの当時、京都には幕府の六波羅探題が置かれて承久の乱後の西国監視を強化していた。芳賀七郎の戦った相手は六波羅軍であった可能性が高い。単に馬をよこせ、よこさぬで公的機関が軍勢を差し向けるはずもなく、おそらく七郎に反幕的な政治的・思想的な行為があったために討伐を受ける結果になったのであろう。

 芳賀氏討伐に中村氏が関与していたかどうかはよく分らないが、鎌倉中期以降頃には中村氏が当地に入部している。初代光時は武蔵七党丹党丹治氏の分れというのが定説となっている。

 その後、中村氏は播磨守護赤松氏等に属して戦国時代を生き抜き、二十代吉宗に至るまで約三百年間波賀の地を守り続けた。この間に芳賀城も改修、拡張を続けてきたものであり、その石垣の様式の古さを見ると中村氏が城の強化に先取的かつ積極的であったことがうかがえる。残念ながら中村氏や波賀城に関する歴史は多くは伝えられていないようだ。

 波賀城の落城についてもよく分っていないようだ。天正八年(1580)には羽柴秀吉によって播磨は平定される。その際に北の守りの拠点とした可能性も考えられるとされているが、間もなく不要の城となったものと思われる。天下が治まり江戸時代となると宍粟郡は山崎藩領となり、山崎城に藩庁が置かれると波賀城は完全に歴史の舞台に戻ることはなくなった。


▲ 波賀城の石垣。天正年間以前(〜1572)の様式でレンガ状の横長石が多い。
 ▲ 林道の終点が訪城者用の駐車場となっており、ここからは徒歩で向かう。
▲ 駐車場から200mほどで管理事務所や案内板、冠木門のある所へ着く。

▲ 冠木門横の城址碑。

▲ 冠木門からの登山路はすべて歩きやすく整備されている。

▲ 木造二層檜皮葺きの櫓。内部は学習資料館として無料公開されている。

▲ 二層櫓の内部。壁に波賀城の歴史などが説明されていた。

▲ 城址最高所には祠が建っている。

▲ 櫓台の石垣。角部の積み方が後の算木積にまで発展していない古い形態である。

▲ 櫓から城下を眺める。眼下に因幡へ通じる若桜街道が見える。
----備考----
訪問年月日 2013年5月4日
主要参考資料 城址説明板・他

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