音戸瀬戸
(おんどのせと)

              広島県呉市警固屋      


▲ 海峡の手前が本土側、向こう側は倉橋島である。海峡を結ぶのは
「音戸大橋」で、日本初のアーチ型ループ式高架橋と呼ばれるものである。

作られた
       清盛開削伝説

 音戸瀬戸といえば、平清盛がその権勢にまかせて航路開削の難工事を成し遂げたことで知られている。

 永万元年(1165)七月、十ヵ月に渡る難工事もこの日の干潮時をもって完了の段取りとなっていた。しかし、懸命の突貫工事にもかかわらず陽は西に沈みかけ、現場の足元も暗くなってきた。このままでは工事を中断せざるを得ない。あと一息で完成だというのに。

 そこで清盛は日迎山に登り、沈みつつある太陽に向かって、
「返せや、戻せや」
 と右手の金扇を大きくうち振ったのである。
 すると、沈みかけていた太陽が再び空に戻り、工事が無事完了したという。

 確かに瀬戸内は平家との関係が古く、清盛も安芸の国司に任ぜられもしており、また厳島神社との縁も深く、清盛が瀬戸内海航路の確保に大きく関わっていたことは当然であったといえる。

 しかし近年の学術研究によれば、海底を形成しているのは花崗斑岩の岩脈であり、これを人力で開削することは難しいといわれている。さらに縄文時代以降の海面変化においても音戸瀬戸が陸地化したという形跡が見出せないということである。

 つまり、音戸瀬戸はもともと海峡であったということになる。何とも夢を潰されたような気分になるが、それはそれで受け入れなければならないだろう。

 現在、音戸大橋の倉橋島側の岸辺に清盛塚があり、また音戸瀬戸公園には吉川英治氏の文学碑が建っている。

 この文学碑には吉川英治氏が「新・平家物語」の取材旅行で清盛塚を眺めて云った、
「君よ今昔の感如何」
 との言葉が刻まれている。
 実はこれ、宮島の清盛塚に立ち寄った際に云った言葉だと云われている。

 日招きの清盛像、そして文学碑、実に作為的である。

 ただ、平家全盛を築いた清盛の偉大さを伝えるための物語であったとして音戸瀬戸を眺めるならば、きらびやかに飾り立てた厳島詣での平家の船が海峡を通過する様が目に浮かぶというものである。

▲ 本土側の音戸瀬戸公園内には昭和42年7月に建てられた清盛の日招き像がある。この像の建っている高烏台は日露戦争当時に広島湾要塞高烏堡塁砲台が築かれたところでもある。

▲ 昭和38年5月に造られた吉川英治氏の文学碑。氏は自身の文学碑の建造にはきわめて消極的であったと云われているが、ここの文学碑は生前に唯一許可したものである。
----備考----
訪問年月日 2006年8月17日
主要参考資料 現地説明板、他

トップページへ全国編史跡一覧へ