下津井城
(しもついじょう)

県指定史跡

            岡山県倉敷市下津井    


▲下津井城は宇喜多秀家が瀬戸内海交通を監視するために築いた
城である。その後も岡山城主となった池田氏によって城が維持され
たが、天下が泰平となるや、一国一城の決まりに従って廃された。
(写真・本丸跡の城址碑。)

内海を見下ろす近世城郭

 備前宰相(備前、美作、備中半国、播磨三郡の計五十七万四千石)と呼ばれて豊臣秀吉に可愛がられた宇喜多秀家が本城岡山城の支城として文禄年間(1592-96)に築いたのが下津井城である。元々当地には小城があったものを改築したものと言われている。瀬戸内海に突き出た児島半島の突端に築かれたこの城の役割は言うまでもなく水上交通を押さえるためのものである。秀家はこの城に家臣浮田家久を置いて守らせた。

 関ケ原合戦(1600)で宇喜多秀家は西軍の主力として奮戦したが小早川秀秋の寝返りによって壊滅、戦後は八丈島へ流された。宇喜多氏滅亡後、備前・美作五十万石を与えられたのは小早川秀秋であった。下津井城には児島郡二万石を与えられた家老の平岡頼勝が入った。慶長七年(1602)、小早川秀秋が早世、無嗣断絶により改易となる。

 翌年、池田忠継(姫路城主池田輝政の次男)が岡山城主となり、播磨赤穂城代池田長政が下津井三万二千石を拝領して入部した。池田長政は城の改築に取り掛かり、現在見られる城の形態を完成させた。長政は建築の才があったようで江戸城駿府城の普請に活躍した。慶長十二年(1607)に下津井城の普請が完成したが、長政自身は駿府城の普請現場からの帰途、病に斃れたためその雄姿を目にすることはなかった。

 慶長十四年(1609)、池田輝政の甥池田由之(よしゆき)が下津井城主となる。慶長十八年(1613)、輝政没後、由之は明石城に移った。

 元和元年(1615)の一国一城令によって下津井城は廃されることになるが、寛永九年(1632)の岡山藩と鳥取藩(両藩ともに池田氏)の国替えによって池田光政が岡山に入部すると家老で米子城代であった由之の子由成が下津井城に入った。

 寛永十六年(1639)に至り、由成は天城(倉敷市藤戸町天城)に陣屋を構えて下津井城を出ることになり、城は廃された。


▲二の丸西側の石垣。

▲本丸北隅の天守台跡。

▲城址一帯は「瀬戸大橋架橋記念公園」として整備されており、駐車場も完備されている。

▲公園エントランスにある園内の案内図。

▲城跡への歩道。

▲歩道を進むとこの広場に出る。馬場跡となっている。左側の高くなっているところは西の丸である。

▲馬場跡から見た西の丸石垣跡。廃城により石垣が破却されたのであろうか。

▲西の丸と二の丸を結ぶ土橋。

▲二の丸の石垣。

▲二の丸内側の石垣。

▲二の丸から本丸へ。

▲本丸跡。

▲本丸に建つ城址碑。

▲駐車場からは瀬戸大橋が見える。
----備考----
訪問年月日 2018年5月2日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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