鞆城
(ともじょう)

                  広島県福山市鞆町後地           


▲ 鞆城本丸の東南隅とそれに連なる石垣の一部が復元さ
れている。石垣上の建物は歴史民俗資料館である。

足利最後の鞆幕府

 鞆の浦は古くから潮待ちの港として知られる。瀬戸内海の潮の干満がここで東西に分れ、そしてぶつかるのである。瀬戸内海を航行する船は一旦鞆の港に寄り、潮流の変化を見て再び船を出すのである。いわば鞆の港は海上交通の戦略的要所であるのだ。
 鞆港に突出した陸続きの島には南北朝時代に大可島城が築かれ、両軍による争奪合戦が起きている。また貞和五年(1349)には足利直冬が中国探題となり、この城に拠っている。その後、戦国期には瀬戸内で勢力を伸ばした因島村上氏が鞆に進出してこの城に拠ったとされている。
 このように大可島城は古くから存在していたのであるが、ではここ鞆城はいつ頃築かれたのであろうか。諸説あるが、天文十三年(1544)に中国から北九州にかけてその勢力を誇っていた大内義隆が因島の村上新蔵人吉充に宛てた「鞆浦内十八貫文の地を宛行う」という文書があることから、この時に村上氏によって港を見下ろすこの丘に城が築かれたとも云われている。因島村上氏は同族の能島、来島の村上氏よりもはやくから、その水軍衆を率いて毛利氏に従っており、鞆城も毛利氏の支城として機能し、拡充されていったものと思われる。
 元亀四年(1573)に京を追放されて畿内を転々としていた将軍足利義昭が天正四年(1576)、毛利輝元を頼って鞆城に入った。これにより、城は拡充され居館も設けられた。
 足利義昭は織田信長によって追放されたとはいえ、その身分は依然として征夷大将軍のままであり、奉公衆などの近臣も従えていた。義昭はここ鞆で毛利輝元を副将軍とし、毛利家臣らを将軍の近臣とするなどして幕府を開いた。いわゆる「鞆幕府」である。
 義昭が執拗に将軍権威を維持しようとしていたのは他でもない、それは信長討伐の一点にあった。しかし頼みの上杉謙信が死去、そして石山本願寺が信長に屈服、さらには武田勝頼の滅亡と続き、天正十年(1582)には義昭の画策した信長包囲網は潰えてしまった。
 しかし幸か不幸か、包囲網の破綻と同時に信長も本能寺に滅びたのである。この期に上洛が果たせたかもしれなかったのであるが、意外にも毛利が反対した。すでに毛利と羽柴秀吉が接近していたからである。
 秀吉は将軍となるため、義昭に自分を猶子とするように求めたが、義昭はこれを断っている。当然、義昭と秀吉の関係は冷えたものとなった。

▲ 鞆城本丸跡から眺めた鞆の浦と瀬戸内海。中央の半島状に突き出た丘が大可島城跡である。その右側の入江が鞆の港である。
 その後、秀吉の天下統一が進み、天正十五年(1587)には島津氏が秀吉に降った。両者の仲介には義昭の尽力があったと云われる。この一件で秀吉の義昭に対する心象も良くなり、義昭の上洛が許された。
 義昭が上洛のために鞆城を去ったことにより、鞆幕府は消滅した。翌十六年、義昭は将軍を辞して出家、晩年は秀吉の御伽衆に加えられた。慶長二年(1597)、大坂にて没。享年六十一歳であった。
 義昭の去った後の鞆城には毛利氏の城代が置かれたが、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の戦功によって安芸・備後は福島正則の所領となり、その家臣大崎玄蕃が城代として入った。
 この福島時代に城域がさらに拡大、整備され、本丸には三層の天守が建てられた。
 元和元年(1615)の一国一城令により天守櫓は三原城に移され、廃城となった。
 元和五年(1619)、福島氏改易により水野勝成が備後に入封した。この時に勝成の嫡男勝俊を鞆城三之丸跡に居館を築いて置いた。勝俊が藩主として福山城に移った後は町奉行所が置かれ、明治に至っている。

▲ 石垣に使われていた石が本丸跡に集められ、展示されている。

▲ 石垣の石にはこうした刻印が目につく。

▲ 復元された本丸の石垣。

▲ 三之丸跡の石垣。病院建設中に発見され、現在地に移された。

▲ 鞆城跡の北西近くの小松寺山門。建武三年(1336)、京を追われた足利尊氏はこの寺で賊徒討伐のための光厳上皇の院宣を得、九州で勢力を回復して京へ攻め上った。地元では足利氏は鞆に始まり鞆に終ったと言われているという。

▲ 鞆城跡の北西近くに静観寺がある。その門前には「山中鹿之助首塚」がある。上月城で降伏した鹿之助は備中松山阿井の渡しで討たれてしまった。その首だけが鞆城に運ばれ、足利義昭や毛利輝元らの首実検が行われた。
----備考----
画像の撮影時期*2009/01