鳥取城
(とっとりじょう)

国指定史跡、百名城

        鳥取県鳥取市東町2      


▲ 鳥取城は羽柴秀吉による徹底した兵糧攻めで落城したことで
知られる。しかし、その後は因幡の府城として近世城郭に生まれ
変わった。戦国期の山城と徳川期の近世城郭とが混在する城である。
(写真・大手登城路から見た二ノ丸石垣と背後の久松山。)

兵糧攻めに屈した因幡の堅城

 鳥取城の創築に関しては時期、築城者ともに不詳の状態にある。従来の説では天文十四年(1545)に山名誠通(因幡山名氏)が築いたとされていたが、現在では山名祐豊(但馬山名氏)が対立する因幡山名氏の付城として天文年間(1532-55)に築かれたとする見方もされている。言うまでもなく、この当時の鳥取城は久松山上に築かれた山城であった。

 永禄五年(1562)、鳥取城を因幡支配の野望の拠点とし、居城としたのは武田高信であった。武田高信は因幡山名氏の家臣であったが、永禄六年(1563)には今は亡き先の守護山名誠通(のぶみち)の遺児豊成を毒殺、次いで現守護山名豊数勢の鳥取城攻めを撃退して力を誇示した。そして毛利氏と誼を通じ、山名豊弘を傀儡の新守護に擁立して豊数を鹿野城に追い詰めた。まさに下剋上を地で行く高信であったが、国人衆の掌握には手を焼いたようだ。

 鹿野城の山名豊数はその後間もなく没したようで、その弟豊国が避難先の但馬山名祐豊のもとで因幡復帰の機会を窺っていた。天正元年(1573)、山中幸盛らの尼子残党軍と共に豊国は因幡へ進出して武田高信を攻めた。

 豊国や尼子党との戦いに敗れた武田高信は鳥取城を明け渡して本来の拠城である鵯尾城に逼塞した。そして天正三年(1575)前後には、その経緯は不明とされるが死去してしまった。豊国によって殺されたものと見られている。

 鳥取城主となり因幡山名氏の家督を継いだ山名豊国であったが、その年の内に安芸毛利の吉川元春に攻められてこれに降った。代わって鳥取城に入ったのは南因幡の国人毛利豊元であった。

 翌天正二年(1574)、再び尼子党が因幡を席巻したため鳥取城の豊元は退城。そのまた翌年の天正三年(1575)、但馬山名氏が安芸毛利氏と和睦したため、吉川元春率いる毛利勢が因幡へ進攻して尼子党は撤退。毛利方となった山名豊国が鳥取城主に復した。

 天正八年(1580)、播磨を平定した羽柴秀吉が因幡へ進攻して鳥取城を囲んだ。城主山名豊国は三ヵ月の籠城の末の九月、抗戦派の家臣らを振り切って秀吉に降伏した。この時、豊国は単身秀吉の陣中に赴いたという。

 秀吉が兵を退くと鳥取城の抗戦派の家臣等は吉川元春と連絡を取り、毛利方の武将を城将として迎え入れたのである。城将は牛尾元貞、市川雅樂允、朝枝春元と入れ替わり、最終的には石見国福光城主の吉川経家が城主として入城した。

 吉川経家が四百余の手勢を率いて鳥取城に入城したのは天正九年(1581)三月であった。入城した経家は兵粮の備蓄の少なさに驚き、その調達に苦心したという。それというのも秀吉が因幡国内の米を高値で買占めていたためであった。すでに秀吉の兵糧攻めは始まっていたのである。

 七月、羽柴秀吉は二万余の大軍で鳥取城を包囲した。毛利方鳥取城内の城兵は吉川経家以下千四百余人、兵糧はわずか20日分であったという。しかも、近隣の農民四千人ほども城内に避難していたと言われるから瞬く間に兵糧は底をついた。城内の木の実、木の皮はもとより果ては討死した兵の肉まで食したと言われる。月日が経つごとに餓死者続出、十月下旬ついに経家は自身の切腹を条件に開城を決意するに至り、鳥取城は秀吉の徹底した兵糧攻めによって落城した。後に鳥取城の「餓え殺し」と呼ばれた。

 鳥取城には秀吉与力の宮部継潤が入り、後に五万石の城主となり、隠居後は子の長房が継いだ。慶長五年(1600)の関ヶ原合戦に際しては西軍に属したために改易となった。

 関ヶ原後、池田長吉が六万石で入城。元和元年(1615)、池田宗家の光政が三十二万石の大封で城主となり、鳥取城も大々的に改修されて近世城郭の体裁を整えるに至る。

 寛永九年(1632)以降は分家筋の池田光仲が三十二万五千石の城主(藩主)となり十二代続いて明治に至る。


▲天球丸の石垣補強のための球面状の巻石垣(復元)。
文化四年(1807)頃に築かれたとされる。

 ▲ 鳥取城は中世の山城(山上ノ丸)と山麓部の近世城郭の遺構が併存する城跡である。写真は山上ノ丸のある久松山である。
▲ 中ノ御門跡から見た堀と石垣。

▲ 中ノ御門大手口前に建つ城址碑「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平」。太閤ヶ平は鳥取城兵糧攻めの際に秀吉が陣所とした所で、久松山の東1.4kmの山上にある。

▲ 大手登城路中ノ御門跡。

▲ 大手登城路を登りきると天球丸に出る。関ヶ原後、鳥取城主となった池田長吉の姉天球院がこの曲輪に住んだことから名付けれたという。

▲ 天球丸から見た鳥取市街。直下には巻石垣が見える。

▲ 二ノ丸枡形の石垣。

▲ 山上ノ丸への登り口。「くま注意」の看板があるが、登る人は多いようだ。

▲ 二ノ丸の三階櫓石垣。

▲ 表側から見た三階櫓の石垣。

▲ 明治維新直前に建てられたという城門。博物館側から二ノ丸への登城路にある。

▲ 北御門跡から見た堀と石垣。
----備考----
訪問年月日 2013年5月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「秀吉の城と戦略」他

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