金ケ崎城
(かねがさきじょう)

国指定史跡

            福井県敦賀市金ヶ崎町1       


▲金ケ崎城は南北朝争乱期に新田義貞らが北陸の勢力を結集しようとして拠点とした
城である。しかし、幕府の大軍には敵わず、兵糧尽き果て、落城の悲劇に見舞われた。
(写真・金崎宮近くに建つ城址碑)

まぼろしの北陸朝廷

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は天皇親政の理想に燃えて建武の新政(元弘三年/1333)を断行したが、やがて武家政権樹立を目指す足利尊氏と対立するところとなる。一旦は劣勢となって九州へ落ちた尊氏であったが延元元年(1336)五月には湊川に楠木正成を破り、入京を果たして室町幕府を開くに至る。

一方の後醍醐天皇は十月、新田義貞に恒良親王と尊良親王を奉じて北陸へ下らせ、反尊氏の勢力結集を命じた。そして自らは京を脱出して吉野へ移り、南朝を開いた。南北朝争乱の幕開けである。

十月十三日、敦賀に入った新田義貞らの軍勢は気比宮神官の気比氏治らに迎えられ、金ケ崎城に陣取った。この金ケ崎城は平安末期の養和元年(1181)に木曽義仲討伐のために下向した平通盛がここに布陣して戦ったことにはじまると伝えられている。

金ケ崎城入城の翌日、新田義貞は嫡男義顕と弟脇屋義助の子義治を直ちに杣山城へ走らせた。杣山城(南条郡南越前町)は瓜生氏の城である。城主瓜生保(たもつ)の姉は気比氏治に嫁いでおり、その関係で援軍を求めたのであろうか。ところが、瓜生保は越前守護足利高経の謀計(偽綸旨)によって幕府方に属していた。

新田義顕は金ケ崎城へ反転したが城はすでに守護足利高経勢によって包囲されていた。義顕ら十六騎は奇計をもって包囲網を突破、帰城を果たしたという。

十一月十八日、瓜生保は偽綸旨に乗ぜられたことを知るや、杣山山麓の飽和社(杣山神社)に勤皇の旗を掲げ、脇屋義治を迎えて挙兵した。しかし雪深く、すぐには進軍できず、翌延元二年(1337)正月中頃の晴れ間をついて五千の軍勢で金ケ崎城救援に進発した。

この頃、金ケ崎城は高師泰を大将とする十数ヵ国からなる幕府軍六万余の包囲下にあった。木ノ芽峠を越えて南進する瓜生勢は葉原(敦賀市葉原)から樫曲(同市樫曲)へ向かったが、幕府軍の今川頼貞ら二万三千余の迎撃を受けて激戦奮闘空しく瓜生保は討死、救援軍は壊滅撤退してしまった。

二月五日の暗夜、新田義貞は弟脇屋義助、公家の洞院実世を伴い、窮状打開のために金ヶ崎城を密かに脱出して杣山城へ向かった。脱出に際して義貞は嫡男義顕を恒良、尊良両親王の守護として金ヶ崎城に残した。

 ちなみに、恒良親王は北陸へ下る際に後醍醐天皇より皇位を譲られており、新田義貞らは天皇を擁する軍勢でもあった。実際に金ヶ崎城から発せられた綸旨(天皇による命令)が残されているという。とは言え、後醍醐天皇が吉野朝を開いたことで恒良親王への譲位は取消されたも同然となっていた。幻の北陸朝廷であったといえる。

城内の兵糧が尽き、城兵の気力も衰えた三月二日、幕府軍は総攻撃を開始した。それでも城兵の奮戦によって四日ほどは持ちこたえたが六日朝に至り、ついに落城の日を迎える。

恒良親王を船で城外に脱出させた城内では尊良親王が自害、新田義顕(十八歳)、気比氏治、一条行房ら城内の士三百八十余人が城を枕に殉じて壊滅した。恒良親王を対岸に上陸させた気比斎晴は城内に引き返し、父氏治の枕辺で憤死したという。

落城の翌日、恒良親王は幕府軍に捕えられ、京都花山院の邸にて翌年四月に毒殺されたという。年十五歳であった。

一方、杣山城で軍容を整えた新田義貞は落城の翌年延元三年(1338)七月、金ヶ崎城を攻めて奪回、越前国内で勢力を挽回しつつあったが藤島の戦い(福井市)であえなく戦死してしまった。翌年五月、金ヶ崎城は再び幕府軍によって奪われてしまう。

正平六年(1351)、足利直義が金ヶ崎城に拠って足利尊氏に抗したという。

室町時代に入ると守護斯波氏の重臣甲斐氏が守護代として台頭、両者の対立が激しくなり、長禄三年(1459)の長禄合戦では金ケ崎城の甲斐氏を守護斯波義敏が攻めて敗れている。

戦国期に入ると朝倉氏が台頭して、文明三年(1471)には朝倉敏景が越前守護となり、永正二年(1505)には朝倉宗滴が敦賀郡司となって金ケ崎城を居城とした。以後、宗滴の子孫が代々敦賀郡司として続いた。

元亀元年(1570)四月、朝倉征伐のために織田信長が出陣、金ケ崎城を包囲した。孤立無援の金ケ崎城主朝倉景常は降伏開城した。しかし、この時の朝倉攻めは浅井長政の謀反によって頓挫、信長は京都に逃げ戻っている。

天正元年(1573)、朝倉氏滅亡後は越前一向一揆に対する織田方の拠点となり、武藤舜秀(きよひで)が金ヶ崎城に居たという。


▲摂社・絹掛神社。尊良親王に殉じた新田義顕ら三百二十一名の武士を祀る。「…籠城五ヵ月糧食全く尽き果てて尚数十倍の賊軍に立向った壮烈な敢闘精神は日本武士道の華と謳われた」(絹掛神社の由来より)。

▲城山から見た敦賀湾。対岸は敦賀半島。

▲山麓の駐車場。

▲駐車場に建つ由緒碑。

▲金崎宮への石段。

▲金崎宮の鳥居。

▲金崎宮。明治26年(1893)に恒良親王と尊良親王を祭神として創建された。

▲現在の金崎宮の絵図。

▲鴎ヶ崎。幕末には台場として整備された。

▲尊良親王御墓所見込地の入口。

▲尊良親王御墓所見込地。
----備考----
訪問年月日 2019年12月28日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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