アンコール・トム
(Angkor Thom)

       カンボジア王国シェムリアップ州         


▲ アンコール・トムはアンコール王朝の最盛期を築いた
ジャヤヴァルマン7世によって築かれた都城である。
(写真・遺跡の中心に建てられたバイヨン寺院)

アンコール朝最大の都城

 クメール(現在のカンボジア)の歴史におけるアンコール朝は9世紀から14世紀にかけて栄えたものである。その間、26人の王の名が今のところ知られている。これらの王は父子継承で代々続いてきたものではなく、子はもとより兄弟、親戚、臣下、地方の小王までもがその実力と支持を得られれば王位継承者となりえたのである。その多くの場合は戦いを伴うものであったようだ。
 こうして真の実力者として認められた代々の王の中で最も偉大にして慈悲深く、またその武威は四隣を圧して王朝最大の版図を持つに至った王がジャヤヴァルマン7世(歴代23番目の王/1181-1218頃)である。そして彼はアンコール遺跡群のなかでも最大規模を誇るこのアンコール・トム(大きな都市)の築造者でもあった。
 ジャヤヴァルマン7世の父はダラニンドラヴァルマン2世で小王国の王であったと見られている。父はスールヤヴァルマン2世(歴代18番目の王/1113-1150頃)の従兄弟であったから彼は一応は王族に連なる身分にあった。そのため、王位に就く前の彼は軍団を率いて王朝のために地方の反乱鎮圧や遠征に数限りないほどに出向いていたという。軍事的な才能にも恵まれていたようだ。即位に至る経緯を見ても軍団指揮官としての側面を色濃く伝えている。
 1165年頃(日本では平家全盛の頃)、まだジャヤヴァルマン7世として即位する以前のことであるが、この頃に彼は軍団を率いてチャンパ国(現在のベトナム中南部に栄えた王国)遠征の陣にあり、首都ビジャヤを攻略していた。この時、アンコールでは王のヤショヴァルマン2世(歴代19番目の王1150頃-1165頃)が、高官の反乱によって王位を簒奪されるという事態が起きていた。王はこの争乱で落命してしまったものと見られている。遠征の陣中でこの報せを聞いた彼ジャヤヴァルマン7世はヤショヴァルマン2世を救おうと急いで引き返したと言われるが、時すでに遅く、王位簒奪者はトリブヴァナーディティヤヴァルマンと名乗って即位してしまっていた。
 そこでチャンパ国である。ジャヤヴァルマン7世率いるクメール軍が引き上げると、勢いを盛り返し、新たにチャンパ国王となったジャヤ・インドラヴァルマン4世はカンボジアへの侵攻を開始したのである。そしてメコン川を遡り、トンレサープ川からトンレサープ湖へと水軍を進め、アンコールの都城を一挙に攻め落としてしまったのである。1177年のことである。王位簒奪者トリブヴァナーディティヤヴァルマンはこの戦いで死んだとされている。
 この間、ジャヤヴァルマン7世の動向は分らない。雌伏の時であったのだろう。それでも、チャンパの攻撃で都城が落とされた際にはアンコール(近辺)へ戻ったと言われている。さらに雌伏すること4年。

 1181年、兵を養い、力を蓄えたジャヤヴァルマン7世はついに立ち上がる。トンレサープ湖上の水上戦と陸上の戦いでチャンパ軍を撃ち破り、アンコールにおけるチャンパ王ジャヤ・インドラヴァルマン4世の王宮も戦場となり、血の海となったと伝えられている。
 この戦いはチャンパ王を討ち、アンコールを奪還し、ジャヤヴァルマン7世が王位に就いたという歴史的な戦いとなった。彼が新たな都城として築いたアンコール・トムの中心位置にあるバイヨン寺院の回廊壁面に彫られたレリーフがこの時の戦いの様子をリアルに伝えている。
 このアンコール・トム、一辺が3kmで高さ8mの城壁に囲まれた方形の遺跡である。城壁の外側には幅100mの水濠が取り巻き、出入り口は東西南北に設けられた4ヵ所の塔門のみとなっている。遺跡の中心には国家鎮護の寺院バイヨンが建ち、王宮やそれに関連する建造物が今もなお多く残っている。


▲ アンコール・トム南門。アンコール・トム遺跡への入り口で、観光に訪れた場合はここから案内されることになる。濠を渡って門に至る陸橋参道の両側には巨大な石像が並んでいる。

 アンコール朝の最盛期をもたらし、仏教を信奉した偉大な王ジャヤヴァルマン7世も1218年頃に崩御したと見られている。その後、インドラヴァルマン2世(歴代22番目の王/1220頃-1243)、ジャヤヴァルマン8世(歴代23番目の王/1243-1295)と続いた。
 このジャヤヴァルマン8世はヒンドゥー教徒であつたため、バイヨン寺院をはじめとする他の仏教寺院がヒンドゥー化のために改修された。
 その後、1350年頃からアンコール朝は隣国シャムのアユタヤ朝の攻撃を受けるようになり、何度か都城が占領されるなどして衰退、1431年にはついに都城を放棄してアンコールを去るに至ってしまう。1434年、ポニエ・ヤート王(1417-1463)はプノンペンに都城を建設、アンコールはその後100年ほどジャングルに覆われ、クメール人からも忘れられてしまった。
 16世紀中ごろ、一時的にクメールの王が遺跡(アンコール・トムを含む)の修復・整備を手掛けたが、その後19世紀中頃に西洋人によって脚光を浴びるようになるまで、再び密林と共に静かに眠り続けていた。


 ▲ 南門の上に彫られた顔は守護者である王たちの顔と言われる。

▲ アンコール・トムの外側を囲む環濠。幅100mの水堀である。

▲ 環濠と共にアンコール・トムは高い城壁によって守られている。

▲ アンコール・トムの中心位置にあるバイヨン寺院。

▲ バイヨンの外側回廊の壁面のレリーフ。チャンパ軍と戦い、アンコールを奪還した時の戦いの様子が800年以上の時を超えて私たちの眼前で繰り広げられる。坊主頭にたすき掛けの兵士がクメール軍で、彼らの足元に倒れて今まさに討たれようとしている兜を被った兵士がチャンパ軍である。

▲ バイヨンの幾つもの塔に彫られた顔のひとつ。これらの顔は観世音菩薩を表すと言われているが仏陀であるとも王であるとも言われ、専門家でも意見の分かれるところだそうだ。

▲ バプーオン。ヒンドゥー教寺院で王宮跡の南に位置する。東側からは東塔門、中央祠堂が重なって見える。

▲ 像のテラス。王宮の東側に南北300m以上、高さ3mほどのテラス。側面に像のレリーフがあることから像のテラスと呼ばれる。

▲ 像のテラスに設けられた階段のひとつ。上り口の両側に柱が3本見える。これは像の鼻である。

▲ 像のテラスの上。

▲ 王宮跡に残る寺院遺跡ピミアナカス。ジャヤヴァルマン7世以前から存在していたと言われ、11世紀初頭の建造と見られている。王家の礼拝堂と考えられている。

▲ 王宮跡の池と城壁。宮殿自体は木造であったために消滅してしまった。

▲ 王宮への門のひとつ、北塔門。

▲ 像のテラスの北端にあるライ王のテラス。壁面にびっしりと神々や女神たちのレリーフが彫られている。王を荼毘に付す場所であったと見られている。

▲ ライ王のテラスの上面に置かれているライ王の彫像(レプリカ)。近年の調査によれば、地獄の神夜摩天であるそうだ。
----備考----
訪問年月日 2012年8月18日
主要参考資料 「アンコール・王たちの物語」
「アンコール 遺跡を訪ねる旅」他

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