真珠湾
(PEARL HARBOR)

        アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル      


▲ 真珠湾は1941年に編成され、現在に至るまで米海軍太平洋艦隊の根拠地
である。太平洋戦争の開戦劈頭に日本海軍の航空攻撃を受けた戦跡でもある。
(写真・太平洋歴史公園から見た真珠湾。フォード島と
アリゾナ・メモリアル、戦艦ミズーリ記念館が見える。)

ワレ奇襲二成功セリ

 昭和16年(1941)12月8日午前1時30分、つまり現地ハワイ時間の7日午前6時、オアフ島北方230海里の洋上では6隻の空母(航空母艦)から飛び立った183機の大編隊が轟音を響かせて黎明の空を南下し始めた。日本海軍による真珠湾攻撃の第一派(第1次攻撃隊)である。陣容は水平爆撃隊49機(九七式艦上攻撃機)、雷撃隊40機(九七式艦上攻撃機)、降下爆撃隊51機(九九式艦上爆撃機)、制空戦闘隊43機(零式艦上戦闘機)であった。目標はオアフ島真珠湾を根拠地とする米海軍太平洋艦隊の艦船であり、目的はその撃滅である。

 開戦劈頭に敵主力を壊滅させ、爾後の作戦を有利に進めようとする連合艦隊司令長官山本五十六の戦略であったのだ。このために編成された機動部隊は空母6隻を基幹とする戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦9隻、潜水艦3隻、給油船8隻であった。択捉島単冠(ヒトカップ)湾に秘かに集結した機動部隊が発進したのは11月26日であった。

 いまだ海軍内部では大艦巨砲主義、艦隊決戦主義が支配的な時代にあって山本長官は航空機と空母を戦いの主役に抜擢したのである。現在でこそ空母の存在は戦略的にも戦術的にも大きな威圧を敵対国に与える存在となっているが、その端緒を開いたのが日本海軍であったといえる。

 ハワイ時間7時40分、第1次攻撃隊はオアフ島北端カフク岬上空付近に到達して各隊別に展開して真珠湾を目指した。9分後、攻撃隊の総指揮官淵田美津雄中佐(九七艦攻に搭乗)は真珠湾に米太平洋艦隊の主力艦である戦艦8隻の姿を捉え、「全軍突撃せよ」を下令した。さらに4分後、真珠湾の西16kmバーバースポイント付近上空に到達した淵田中佐は対空砲火や敵機による邀撃も無いのを見て「トラ、トラ、トラ」(ワレ奇襲二成功セリ)を艦隊宛に打電した。同時に爆撃隊、雷撃隊の攻撃が始まり、ヒッカム飛行場に爆炎が上がり、真珠湾のフォード島岸に碇泊する戦艦群に魚雷の命中した水柱が上がった。やがて湾内と周辺の飛行場は爆炎と黒煙に覆われ、攻撃は1時間ほど続いた。

 第1陣が引き上げる頃、入れ替わるようにして第2派(第2次攻撃隊)がオアフ島東部のカネオヘ飛行場と真珠湾に殺到した。水平爆撃隊54機(九七艦攻)、降下爆撃隊78機(九九艦爆)、制空隊35機(零戦)の167機である。爆煙と黒煙に包まれた真珠湾内であったが戦火を拡大すべく艦爆隊の果敢な急降下爆撃が開始された。攻撃時間は約1時間続いた。

 淵田機は戦果確認のために最後まで真珠湾上空にいて空母「赤城」に着艦したのはほぼ正午近かったのではないだろうか。艦橋では機動部隊指揮官である第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将以下参謀たちが第3派攻撃の可否を議論中であった。各空母ではすでに第3派攻撃隊の発進準備が整いつつあった。淵田中佐の報告後、南雲長官は参謀らの攻撃続行の意見を退けて所期の目的は達成したとして帰投すべく艦隊に進路変更を命じ、真珠湾攻撃に終止符を打った。

 この真珠湾攻撃による米海軍の損害は在泊中の戦艦8隻全艦が被害を蒙り、沈没2隻、着底・擱座3隻、大破3隻、その他駆逐艦2隻、標的艦1隻が撃沈された。航空機に至っては347機を撃破し損傷を与えている。これは実に在ハワイ航空機の84%にあたる。これに対して日本側の未帰還機は29機であった。

 しかし、米太平洋艦隊の空母2隻が在泊しておらず、これを攻撃できなかったことが禍根を後に残した。結局はこの空母を沈めるために連合艦隊はミッドウェー作戦を企画したが、逆に大敗を喫してしまうのである。その後は彼我の戦力は圧倒的工業力の差から物量に勝る米国の優位に推移し、各戦線において日本側の敗北が続いた。最終的には連合艦隊も名ばかりとなって航空機による特攻に頼るほかなくなってしまうのであった。

 米国ではこの真珠湾攻撃を日本のだまし討ちであるとして「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」の合言葉で国民の戦意をあおり、対日戦へと突入した。つまり、日本の最後通牒の手交が真珠湾攻撃の40分後であったからだ。最後通牒手交のタイミングは山本長官が最も神経をつかったところで、「戦いはあくまで堂々とやるべきだ」として攻撃の30分前に手交されることになっていたのである。それが、外務省サイドの不手際で遅れてしまい、しかもその事実は軍にも国民にも知らされることはなかった。

 現在、真珠湾のフォード島東岸の海底には日本の真珠湾攻撃によって爆沈した戦艦アリゾナが沈んでおり、艦をまたいでアリゾナ・メモリアルが建てられている。艦自体は国定慰霊碑、国定歴史建造物に指定されており、多くの観光客がアリゾナ・メモリアルを訪れている。


▲フォード島の太平洋航空博物館内に展示されている零戦。背景から察するに
朝焼けの中を今まさに母艦から出撃せんとする様子を再現しているようだ。

 ▲太平洋歴史公園から見た真珠湾とフォード島。水上の白い建物がアリゾナメモリアルで、その左に記念館となった戦艦ミズーリが繋留されている。
▲太平洋歴史公園内に展示されている大戦当時の潜水艦ボーフィン。

▲太平洋を舞台に対日戦を指揮した太平洋艦隊司令長官チェスター・ウィリアム・ニミッツ元帥の像。背後には戦艦ミズーリが記念館となって繋留されている。

▲戦艦ミズーリ艦上では日本の降伏文書調印式が行われた。1955年(昭和30年)に退役したが、近代化改修を経て1986年(昭和61年)に復役して湾岸戦争にも出撃している。1992年(平成4年)に再退役して真珠湾に繋留され、現在では記念館として一般に公開されている。

▲戦艦ミズーリの右舷後部には日本軍の特攻機が激突してできた凹み(黄色矢印)が今でも残っている。1945年(昭和20年)4月11日、沖縄海域におけるこの特攻は鹿屋基地を発進した神風特別攻撃隊第五建武隊の零戦13機によって実施され、そのうちの1機がミズーリに体当たりした。

▲フォード島東部地区には太平洋航空博物館があり、大戦期の実機が展示されている。外には往年の各種軍用機が並んでいた。写真は1960年代に運用されたF-104A戦闘機である。

▲太平洋航空博物館内にジオラマ風に展示されている零戦の残骸。この零戦は第2次攻撃隊として出撃した空母「飛龍」所属の機で、攻撃時に被弾したためにハワイ諸島西北端のニイハウ島に不時着した機体である。

▲アリゾナ・メモリアル。太平洋歴史公園からシャトルボートで渡る。この建物は海底に沈む戦艦アリゾナを跨ぐようにして建てられており、真珠湾攻撃によって爆沈した艦体が水面下に見えている。

▲アリゾナ・メモリアルの壁面には戦死した乗組員の名が刻まれている。

▲海面上に出ている主砲塔の跡。

▲海底の戦艦アリゾナからは現在でも重油が漏れ続けており、虹色の斑紋が浮かび続けている。

▲真珠湾東方のワイキキから見たダイヤモンドヘッド。第2次攻撃隊はダイヤモンドヘッドを眼下に見て真珠湾に殺到した。
----備考----
訪問年月日 2013年9月27日
主要参考資料 「真珠湾攻撃」淵田美津雄
↑  「歴史群像太平洋戦史シリーズ1」・他

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