ひこねはんかみやしき
(ひこねはんかみやしき)

                東京都千代田区永田町         

屋敷跡
▲ 現在、屋敷跡の地下は首都高速道路となっている。

徳川四天王、
        井伊家江戸屋敷

 この場所ははじめ加藤清正の屋敷用地として割当てられたところである。肥後熊本五十二万石の太守に相応しく豪壮な屋敷であったとおもわれるが、寛永九年(1632)二代忠広のときに加藤家は改易となってしまった。その後は彦根三十万石井伊直孝の屋敷となり、代々井伊家の上屋敷として幕末をむかえるに至るのである。
 井伊家は古くより遠江の有力国人としてその歴史は長い。戦国期には今川氏に属していたが、今川家臣の讒言により滅亡の危機に陥ったことがある。当主を討たれ、故地を逃れたわずか五歳の万千代こと直政が浜松城の徳川家康に見出されたのが天正三年(1575)十五歳のことであった。名門井伊家の復活である。その後の直政の活躍はすさまじく、新参でありながら徳川四天王のひとりに数えられるまでになった。
 その武功は子々孫々の繁栄の基いとなり、幕府大老の歴代十二人中六人が井伊家で占めるに至ったほどである。
 大老といえば井伊直弼がよく知られている。十四代彦根藩主井伊直弼が大老に就任したのは安政五年(1858)である。「安政の大獄」と呼ばれる尊攘派の弾圧を断行したことは周知のことであるが、このことによって直弼は同七年三月三日、雪の桜田門外において水戸浪士の襲撃を受け、首を取られてしまった。屋敷と桜田門の距離はわずかに五百bほどである。
 現在、屋敷跡から見える桜田門は高層ビル群を背景に何事もなかったかのように優美な姿を残している。
桜の井
▲ 屋敷跡に残され、現在地に移された「桜の井」。
桜田門
▲ 江戸城桜田門。屋敷とは至近の距離にある。
----備考----
画像の撮影時期*2005/09