石橋山古戦場
(いしばしやまこせんじょう)

                   神奈川県小田原市石橋          


▲ 石橋山古戦場碑と朝陽の昇る相模灘。合戦当時の天候は風雨が強く、海も荒れていた。
このため頼みとする三浦党との合流が果たせず、頼朝は覚悟の一戦に臨まざるを得なかった。

頼朝、覚悟の一戦

 治承四年(1180)、平家追討の以仁王の令旨を受けてから四ヵ月近くが経った八月十七日夜、伊豆配流の源頼朝が北条時政らと共に伊豆の目代山木判官兼隆を討取って打倒平家の旗を揚げた。
 目代とは平家が諸国の支配を徹底するために腹心の武士を現地に配したもので、これを討取るということは平家への宣戦布告と同じことなのである。
 二十日、頼朝らは伊豆韮山を発ち、味方の土肥実平の城館(湯河原町)に入った。従う兵は三百騎であったと伝えられている。
 すでに相模の三浦党が頼朝方に参ずる手筈になっており、この三浦勢と合流して鎌倉入りを果たす計画となっていた。しかし、三浦勢は海路土肥に合流する予定であったが、悪天候のために陸路を西に進んでいたのである。
 土肥の頼朝らはこのまま三浦勢の到着を待っていたずらにに日時を重ねている場合ではなくなっていた。背後から平家方の伊藤祐親が三百騎を率いて迫っており、三浦勢との合流を急ぐ必要があったのだ。
 二十二日、土肥を発った頼朝勢は翌二十三日未明にここ石橋山に達した。ところが、谷ひとつ隔てた向かいの山には平家方の大庭景親を大将とする三千騎が頼朝らの行く手を妨げていたのである。
 この頃、三浦勢も丸子川(酒匂川)東岸に達していたが、折からの雨で川が増水して渡河できずにいた。
 大庭勢が頼朝を討つには、三浦勢の足が止まっているこの悪天候下を衝くほかなくなっていた。天候が回復しては三浦勢に背後を攻め立てられ、頼朝どころではなくなってしまうからである。この日の夜、大庭勢は風雨の中を石橋山の頼朝勢に襲いかかった。
 石橋山に陣取った頼朝はもはや進むことも退くこともできず、絶体絶命の危機となった。
「源氏の嫡流もここで絶えるのか」
 頼朝は覚悟の一戦に踏み切った。
 頼朝勢の先陣佐奈田与一義忠は十五騎を率いて大庭勢の俣野五郎景久七十五騎と乱戦となり、義忠は敵方の岡部弥次郎を討取ると敵将景久と一騎討ちとなった。義忠は力戦して大力で知られる景久を組み敷いた。ところが、首を掻き切ろうとしたとき刀が鞘から抜けなかった。そこを敵方の長尾新五郎為景に組み付かれ、無念にも討たれてしまったのである。義忠の刀は岡部弥次郎を討取った際の血糊が固まり抜けなかったのだと伝えられている。
 また、義忠の郎従豊三家康も主人の死を知るや敵兵八人を討取って大暴れして壮絶な討死を遂げたと伝えられている。

▲ 「与一塚」。合戦の先陣を駆け、壮絶な最期を遂げた佐奈田与一義忠の葬られた塚である。合戦後10年の建久元年(1190)に源頼朝はここを訪れ、佐奈田与一と豊三家康主従の慰霊祭を行った。この塚が当時すでに築かれていたということで現在は県の指定史跡となり、また佐奈田霊社の境内地となっている。
 合戦の推移は多勢の大庭勢が優勢であったことは言うまでもない。頼朝らは山中深く後退して身を潜めた。折からの風雨と闇夜が頼朝らの退却に味方したといえる。
 その後、大庭勢の追跡をかわしながら、土肥実平の道案内で山間を避退、箱根の山中に潜んだ。追跡する大庭勢のなかにも頼朝に心寄せる武士たちがいたことも幸いした。飯田五郎家義や梶原平三景時らがそうであった。
 合戦から五日目の夜、頼朝は真鶴岬から海路安房国へ逃れた。後日、頼朝は安房、上総、下総、武蔵の諸豪数万の軍勢を従え、十月六日念願の鎌倉入りを果たした。
 ▲ 源頼朝挙兵800年を記念して昭和55年(1980)に建てられた古戦場碑。
▲ 合戦で討死した佐奈田与一義忠を祭神として建てられた佐奈田霊社。

▲ 「佐奈田与一義忠討死の地」。敵将俣野景久を組伏せ討取ろうとしたが刀が血糊で固まり抜けず、反対に討取られてしまった。この地は「ねじり畑」とも呼ばれ、ここで採れる作物はみなねじれていると言われている。

▲ 県指定史跡となっている「文三堂」の建つ丘への石段。

▲ 与一塚のある佐奈田霊社の向かいの丘に建つ「文三堂」。主人佐奈田与一義忠の後を追って討死した郎従豊三家康が祀られている。

▲ 古戦場碑の建つ周辺の丘は蜜柑などの果樹畑が多い。
----備考----
画像の撮影時期*2009/11

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