久留里城.
(くるりじょう)

             千葉県君津市久留里      


▲ 昭和53年に再建された天守閣。これは模擬天守閣で、資料により復元されたものではない。
また、実際の天守台は保存されることとなり、この天守閣はその隣に再建された。

伝説の城から
      戦国の城へ

 久留里城の歴史は古そうである。平将門の当時にまで遡る。無論、当時の城地がここであったということでもなさそうである。現在の城址に築城したのは安房から上総に進出してきた里見氏で、久留里城が戦国城砦として天下に名を馳せるようになるのも里見氏によってである。ただ、里見氏による上総進出及び久留里築城の時期に関しては諸説あって判然としていないのが実情でもある。

 ともあれ、まずは里見氏進出以前の久留里城にまつわる伝承から夜話を進めて行くこととしよう。

 平将門はある日天女に出会い、その美しさに惹かれて十年余側に置き天に帰したという。その天女との間に三人の男子が生まれた。一男が千葉、二男が相馬、三男が東少輔と称した。

 ある日、三男の東少輔頼胤が浦田の妙見社(将門は娶った天女をその後、妙見菩薩として崇めた)に参詣した折、夢枕に、
「浦田の峯に城を構え、名を久留里と云うべし」
 とのお告げがあったという。

 頼胤はさっそく人数を集めて城を築き、名も久留里左衛門頼胤に改めた。

 将門敗亡後、頼胤は降伏してそのまま久留里に留まり、清胤、竜胤と三代続いたという。竜胤のとき、同族千葉氏との争いに敗れて久留里を去った。

 その後、田原中将秀国(田原藤太の末孫)が久留里城主となり二代続いた。二代目秀光のときに近江に国替えとなり久留里を去った。建長元年(1249)のこととされている。

 それから二百年ほどの間、この辺りは天領あるいは熊野大社の神領地として続くが、その間に時代は足利幕府の世となり関東の地は関東公方と関東管領家による争いの絶えることのない争乱の巷と化していったのである。

 この争乱の関東で終始古河公方成氏のもとで戦功を上げていた武田信長という武将がいた。甲斐武田氏の一族で幾度も甲斐奪還の戦いを仕掛けていたが果たせずにいたのである。康正二年(1455)信長は上総の守護代に任ぜられ、その翌年には同国庁南城を居城とした。この時に真里谷城には長男信高を置き、さらに峯上城と久留里城を築いて支配体制を固めた。

 しかし文明九年(1477)に信長が没すると、それを待っていたかのようにして千葉氏が武田氏を襲うなどして、国内は乱れた。

 ここまで、将門当時のはなしは伝説的なものであったが、武田信長が守護代に任ぜられるあたりから久留里城の存在が現実味を帯びてくる。

 そして安房の里見氏の登場となる。

 明応六年(1497)里見家二代目当主成義は内紛続きで弱体化している上総への進出を決意、久留里城を接収したのである(「久留里城誌」)。

 天文二年(1533)から三年にかけて里見家では後継争いで内紛が起き、結果として義堯が直系の義豊を滅ぼして六代目当主となった。

 はなしが外れるが、そもそも義豊は三代義通の嫡子であった。父義通が若くして没したため義豊が成人するまでということで叔父の実堯(四代)が実権を握ったのである。これは義通の遺言でもあったのだ。しかし実堯は義豊成人後も実権を譲ることをしなかったため、義豊は決起して実堯を討ち、当主(五代)の座に就いたのである。この時、義堯は久留里城に居て難を逃れたと云われている。そこで義堯は義豊討伐の兵を挙げ、安房へ進撃して義豊を討ったのである。

 この後、里見氏の居なくなった上総国内は再び真里谷武田氏の争乱によって乱れた。

 天文六年(1537)、安房国内が安定すると義堯は再び久留里に進出した。現在の久留里城址はこの時に義堯の手によって築城されたものである。里見氏の上総進出はこの時期であるとする説も多い。

 天文七年、国府台合戦で小弓公方方が敗れ、これに味方した義堯は上総からの撤収のやむなきに至った。そしてまた上総国内は真里谷武田氏をめぐる内紛が表面化するのである。

 天文十三年、義堯は上総国内の内紛に乗じて久留里城に進んだ。というより戻ったと云うべきかもしれない。

 天文二十三年(1554)十一月、北条の大軍迫るの報に久留里城は湧いた。すでに義堯は後見人となり、里見の当主は嫡子義弘となっていた。血気盛ん二十五歳の若大将のもとに重臣正木時茂以下四千の将兵が城内に集結した。この日を待っていたかのように防戦の備えは完璧であった。

 十一日、北条軍の攻撃開始。戦いは地の利を得た里見軍の大勝利で北条軍は多くの犠牲を出して退却した。

 翌年二月、北条綱成は部将藤沢播磨守以下二千余騎を久留里城の西の向郷に布陣させた。糧道を断つ持久戦の構えにでたのである。

 しかし持久戦は攻守ともに辛いものである。一ヵ月後、北条兵の疲労する様を見た義弘は、三月十一日の未明に冬木丹波守の一隊を出撃させた。

 寝込みを襲われた北条軍はあえなく壊走、大将の藤沢播磨守は討取られてしまった。

 その後も北条軍の攻撃は執拗に続いた。八月にも北条方は大軍をもって押し寄せたが里見軍はこれも撃退した。

 九月、北条方の磯部地蔵院が三千余騎を率いて城の大門口に突入した。この時、細田曲輪が破られて北条兵の一部が城内に乱入したが城兵の防戦も凄まじく、やがて北条方は大将以下多くの犠牲を出してついに相模へ引き上げて行った。

 これ以後も、里見と北条は相容れぬ宿敵として戦い続けることとなる。

 翌弘治二年(1556)、義堯と義弘は三万の大軍をもって海路三浦半島へと出陣した。

 これに対して北条氏康、氏政は四万五千を動員して三崎、城ヶ島に布陣。半島沖では里見、北条の海戦が展開された。戦いは里見軍の勝利に終わり、里見の意気は大いにあがった。

 その後、義弘は越後の上杉謙信と同盟するなどして北条対策に万全の態勢をとり続けた。

 永禄六年(1563)の暮れ、上州に出陣中の謙信から兵糧供給の依頼が義弘のもとにあった。

 翌年一月四日、岩付城主太田資正の軍とともに救援の兵糧を準備した義弘は里見軍を率いて国府台に至った。兵力は太田軍と合わせて八千余騎であった。

 この里見の動きを察知した北条氏康は二万の大軍をもって小田原を出陣した。里見の当主を討つ絶好の機会である。

 この時の戦いが第二次国府大合戦と呼ばれるものである。七日、両軍は激突したが寡兵ながら里見軍は北条軍を破り、初日の戦いは終わった。

 二日目、北条軍は北条綱成隊を迂回させて里見軍を二方向から攻撃した。腹背から攻められる形となった里見軍は大敗を喫し、久留里城、佐貫城(富津市)に退いた。この戦いで里見方は五千三百二十余人が討死したといわれている。

 とはいえ、北条軍の攻勢も久留里城に取り付くまでには至らなかった。

 永禄十年(1567)、北条氏政、氏照は今度は三船山(富津市)に陣取った。義弘の居城佐貫城の近くである。義弘は果敢にも出戦してこの北条軍を撃退した。関東の覇者北条も里見の強さには悩まされたようである。

 その後暫くは北条軍の侵攻もなく過ぎた。

 久留里城主義堯が天正二年(1574)六十三歳で没した。そして四年後、天正六年には四十九歳で義弘がここ久留里城で没した。

 義弘は弟義頼(八代)に房州館山を本拠とするように遺言し、久留里城には城代を置くこととした。

 天正十六年(1588)、北条軍は久留里城に迫ったがやはり抜くことはできなかった。

 天正十八年、豊臣秀吉によってついに北条氏は小田原に滅んだ。里見義康(九代)も小田原攻めに参陣したが、遅参を理由に上総領を没収され、安房一国に押し込められてしまった。

 時代は大きく変化していたのである。秀吉、そして家康が天下人となり、戦国争乱の時代が昔日のものとなりつつあった。

 上総は家康のものとなり、久留里城には大須賀忠政が三万石で入った。その後、土屋氏が三代続いたが、延宝七年(1679)に至り藩主土屋頼直の乱行により没収、久留里城は廃城となってしまった。

 それから六十余年後の寛保二年(1742)、黒田直純の入封によって久留里城が再建されることとなった。再建の重点は山裾の三の丸に注がれ、御殿をはじめ侍屋敷や武器庫などが建設された。本丸には二層の櫓を建てて天守に見立てたようである。

 黒田氏はその後九代続き、明治に至る。

 現在は本丸跡に天守閣が再建され、二の丸には資料館が建ち、登城路は舗装されて多くの庶民が気軽に散策できるようになっている。

本丸天守台跡。昭和52年に発掘調査が実施され、その礎石群の配置状況から黒田直純が幕府に提出した二重櫓の絵図面とほぼ一致していたという。

▲二の丸跡に建てられた新井白石の銅像。白石は将軍家宣の閣僚として活躍した久留里藩(土屋氏)出身の逸材である。

▲駐車場から二の丸までは舗装された道が続いている。

久留里曲輪。二の丸に至る途中にある

▲「里見北条古戦史」の碑。北条の大軍を二度に渡り撃退したことが記されている。

薬師曲輪。二の丸の腰曲輪である

再建天守閣から見た天守台跡。現在は保存遺構として管理されている

▲本丸に至る途中にある「男井戸・女井戸」と呼ばれる溜め井戸。度重なる北条軍の来襲にもこの井戸のおかげで籠城に耐えられたという。江戸期には黒田直亨公の頃から藩士の婚儀の際に新郎新婦はこの水を飲んで夫婦の誓いを交わしたと云われている。
----備考----
訪問年月日 2007年5月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

トップページへ 全国編史跡一覧へ