飛鳥寺
(あすかでら)

国指定史跡

            奈良県高市郡明日香村大字飛鳥    


▲飛鳥寺はわが国初の本格寺院として建立された。本尊の
釈迦如来(飛鳥大仏)は建造当時のまま座し続けている。
(写真・飛鳥大仏の碑と山門)

仏法興隆への道

欽明天皇十三年(552)、百済の聖明王より金銅釈迦仏と経典が献上された。これが朝廷における初の仏教公伝とされている。この時、天皇は仏教受入れの可否を臣下に問うている。渡来人との関係が深く仏教導入に前向きな蘇我稲目(いなめ)大臣と国神(くにつかみ)を崇拝する物部尾輿(おこし)大連とが対立して譲らなかった。以後、大臣(おおおみ)蘇我氏と大連(おおむらじ)物部氏の対立は続き、次代の蘇我馬子(うまこ)と物部守屋(もりや)の争いとなって行く。

敏達天皇十三年(584)、百済より鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩の石像一体と佐伯連(さえきのむらじ)も仏像一体を大和へ持ち帰った。

蘇我馬子大臣はその仏像二体を貰い受け、司馬達等(しめたつと)らを派遣して諸国に仏道修行者を探させた。すると播磨国に還俗した高麗人で恵便(えべん)という者がおり、馬子は仏法の師として招いた。そして司馬達等の娘の嶋(しま)ら三人を出家させて尼とし、屋敷内に仏殿を設けて敬った。尼は善信尼という。

翌年(585)、疫病が流行した。馬子自身も病臥してしまう。馬子は何故こうなったのかを卜部(うらべ/占師)に問うと「仏の祟りである」と答えた。馬子は敏達天皇に奏上して仏を祀る許しを得た。ところが物部守屋大連は「疫病蔓延は蘇我氏の広める仏法によるもの」であると天皇に奏上したのである。天皇は仏法禁止の詔を発した。

守屋は馬子の仏殿を焼き払い、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てさせ、さらに善信尼らを捕らえ去り鞭打ったという。しかし、疫病は収まることなく天皇までもが臥してしまった。再度、馬子は仏法信仰の許可を願い出ると、天皇は馬子一人に限り許した。善信尼らも戻され、馬子は新たに仏殿を造り、仏像を迎えて供養した。

この年(585)秋、敏達天皇は崩御、用明天皇が即位した。用明天皇は仏法を信じ、神道を尊ばれたという。用明天皇は馬子の甥にあたる。

用明天皇二年(587)四月、天皇が病に伏す。天皇は群臣に「仏法に帰依したいと思う」と諮り、五日後に崩御した。蘇我馬子は群臣に向かって「詔に従い協力すべし」と団結を促し、反対する物部守屋に対抗した。守屋は身の危険を察して根拠地の河内阿都(大阪府八尾市)へ戻り、兵を集めた。馬子は守屋が擁する穴穂部皇子をいち早く討ち取り、守屋討伐の準備を進めた。

七月、蘇我馬子は泊瀬部、竹田、厩戸、難波、春日の各皇子たち、紀、巨勢、膳、葛城、大伴、阿倍、平群、坂本、春日の群臣らが兵を率いて守屋討伐に河内へ進軍した。戦いは物部勢の方が優勢で恐れた群臣勢は三度退却したと言われる。そこで厩戸皇子(後の聖徳太子)は四天王の像を造り、戦勝すれば寺塔を建てると誓い、馬子もまた同様に寺塔を建て三宝を広めると誓った。兵を整え、再進撃すると守屋を討取り大勝を収め、物部氏は壊滅した。丁未(ていび)の乱という。父子二代にわたる対立は蘇我氏の勝利となり、国政においては蘇我氏一強の時代となって行く。

戦後、泊瀬部皇子が即位して崇峻天皇となった。天皇の母は馬子の妹であるから伯父甥の関係である。

この年(588)、百済より調の献上あり。仏舎利、僧六人、寺院建築、金属加工、瓦、画工の技術者らが献ぜられた。同時に善信尼らを修行の為に百済へ留学させている。まさに本格寺院建立の準備が整いつつあったといえる。馬子は飛鳥の衣縫造(きぬぬいのみやっこ)の先祖の樹葉(このは)の家を壊して寺院建立の用地とした。

崇峻天皇三年(590)、建設用材が伐採される。この年、善信尼らが帰国、導師となって十一人を出家させて尼とした。そして司馬達等の息子で善信尼と兄弟の多須奈(たすな)が出家して徳斉法師となった。法師の子は仏師として名高い鞍作鳥(止利仏師)である。

同五年(592)十月、法興寺(飛鳥寺)の仏堂と歩廊の工事が始まる。翌月、崇峻天皇が馬子を嫌い、内裏に武器を集めていることが蘇我馬子の耳に入った。馬子は驚いて東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて天皇を弑した。そして直駒も殺したのである。そして推古天皇が即位した。彼女もまた馬子とは叔父姪の関係であった。

翌年(593)一月、法興寺の仏塔の心礎の中に仏舎利を安置、塔の心柱を建てた。この年、四天王寺の建立が開始された。国政に於いては推古天皇のもと蘇我馬子を大臣、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とし、天皇中心の制度づくりを目指した。冠位十二階や十七条の憲法などがそれである。

推古天皇二年(594)、天皇は仏法興隆の詔を発し、群臣らは競って仏舎(寺)を建造した。

推古天皇四年(596)、五重塔を中心としたわが国初の本格的寺院である法興寺が落成した。

推古天皇十三年(605)、天皇は皇太子、馬子大臣、諸王、諸臣に詔して仏像造立の請願を立て、鞍作鳥に製造を命じた。完成は推古天皇十七年(609)とされている。この仏像が本尊釈迦如来坐像で飛鳥大仏と呼ばれるものである。

その後、飛鳥寺(法興寺)には百済、高句麗、呉などからの僧が入り、仏教教学の中心となった。もはや蘇我氏の氏寺の域を超えて国家の寺院として朝廷の保護を受けて発展して行くことになる。

しかし、都が京都へ移るとしだいに寺勢は衰えて行く。仁和三年(887)と建久七年(1196)に伽藍焼失と伝えられ、以後荒廃が進み廃寺同然となったという。文安四年(1447)の時点で飛鳥大仏は野ざらしであったようだ。室町、戦国と時代は過ぎ、江戸期に入った寛永九年(1632)に仮堂が、文政九年(1826)に本堂が再建され、現在では安居院と呼ばれている。

飛鳥大仏も火災や寺の衰退とともに損傷が激しく、鋳直しや修復が繰り返されて現在に至っている。額、眉、眼、鼻の顔貌部分は飛鳥時代のままとされる。また安置場所も飛鳥時代から千四百年以上動かされることはなかった。そのおかげで私たちは推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らと同じ位置と目線でこの大仏を拝することができるのである。


▲飛鳥大仏。1400年以上、その位置を動かずに座し続けている。

▲創建当時の飛鳥寺西門跡。西門の外の広場は中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場として知られている。

▲聖徳太子孝養像。室町時代の作で太子16歳の時に父用明天皇の病気回復を祈願する姿の木像である。

▲「飛鳥大仏」の碑。寛政四年(1792)に建てられた。
▲飛鳥大仏開眼千四百年の立札。背後の本堂に飛鳥大仏が安置されている。

▲現在の飛鳥寺西門。

▲創建当時の西門跡。

▲蘇我入鹿の首塚。乙巳の変で斬られた入鹿の首が飛鳥宮からここまで飛んだと伝えられている。飛鳥寺の西門跡の近くにある。
----備考----
訪問年月日 2022年12月6日
主要参考資料 「全現代語訳日本書紀」他

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