安土城
(あづちじょう)

        滋賀県近江八幡市安土町下豊浦      


▲ 安土城は織田信長の壮大な夢を実現しようとした城であり、その
築城方法においても総石垣というそれまでの常識を超えたものであった。
(写真・本丸西虎口から見た枡形と櫓台。)

天下布武の巨城、
       信長の安土計画

 安土城ほど戦国の世に光彩を放った城はないだろう。全山総石垣、壮麗を極める天主、そして近年の調査でその姿を現した一直線に伸びる大手道、そのどれもが当時にあっては常識を覆した城郭の出現であったのだ。
 天正四年(1576)正月、織田信長は丹羽長秀を総普請奉行に命じてこの安土山に築城を開始した。普請とは土木工事のことである。縄張計画に従って本丸部分から始められる。四月には石垣工事に入ったというから信長の気合の入れようがうかがえる。
 現在では大手道の発掘によって天皇行幸計画が裏付けられ、それが通説となっている。戦を前提とした城にはありえない直線の幅広の大手道は天皇を迎えるためのものであり、本丸における礎石配置が御所清涼殿と同様であることから天皇の御座所がここに設けられたと言われる。岐阜城に居た段階で信長の頭にはそうした天下に号令するための安土計画なるものが出来上がっていたことになる。
 この年、信長は正三位内大臣に、翌五年には従二位右大臣に任ぜられ、すでに追放した将軍足利義昭の位階を越えており、信長の計画は順調に進んだ。後は武力平定戦の推進と安土城の完成を待つばかりとなった。
 天正六年(1578)一月には豪商津田宗及に天主を見せているから城全体の工事も仕上げ段階にあったのであろう。この年、信長は右大臣・近衛大将を返上している。これも安土計画のうちにあったのであろうか。
 天正七年(1579)、信長は諸将の年頭の挨拶を安土城で受けており、この頃にはほぼ完成していたものであろう。
 天正八年(1580)には播州三木城が落城して対毛利戦にも勢いがつき、大坂の本願寺との戦いも決着をみた。
 天正九年(1581)、京都御馬揃えで織田軍団の武威を示した。朝廷は左大臣就任を勧めてきたが、信長は正親町天皇の譲位後の誠仁親王即位の際に受けるとして断った。
 天正十年(1582)、甲州征伐で武田氏を滅ぼして凱旋。正親町天皇は信長に太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかを推任すると伝えた。これに対する信長の回答は伝えられていないが、昨年同様に誠仁親王の即位を待っていたに違いなかろう。五月のことである。この月十五日、信長は安土城に徳川家康を招いて饗応している。二十九日、中国攻めのために上洛して本能寺に入った。

 そして運命の六月二日、明智光秀の反乱によって信長は本能寺の炎と共にこの世から消えた。信長の描いていた安土計画も消え去った。
 その安土計画の実態は信長の死によって消えたたために誰にも分らない。ただ、安土城の発掘調査と研究に携わる人たちの尽力のおかげで、その計画の具体性がいま見えつつあるといえる。信長は中国・四国を平定した後と思われるが、いずれは誠仁親王を即位させ、安土城に天皇を迎え、先の三職(太政大臣・関白・征夷大将軍)の就任を受けた(どれかは分らないが)ものと推測されている。この時、天皇を擁した信長によって安土城では古今未曾有の大式典が催されたことであろう。
 本能寺の変時、安土城は蒲生賢秀が留守居役として居たが、彼は信長の妻子を伴って城を退去し、居城の日野城に匿った。このため安土城には光秀の重臣明智秀満が入城して守りに就いた。六月十三日、秀満は山崎の戦いに出陣、坂本城に敗走して自刃した。


▲ 大手入口に復元整備された石塁群。

 それから二日後に安土城の天主と本丸御殿が炎上・焼失した。出火の原因はいまだ不明(織田信雄説あり)である。
 変後、羽柴秀吉は三法師(織田秀信)を信長の後継者として安土城に入れた。本丸は焼失してしまったが二の丸他は健在であったようだ。
 天正十二年(1584)、秀吉は三法師を坂本城に移して安土城を廃した。安土城の石材などは翌年に築城された八幡山城に利用され、信長によって集められた城下町の職人・商人たちも八幡山城下に移った。
 安土城は完成からわずか六年にして廃墟となったことになる。まさに信長の夢と共にその幕を閉じた城であったといえる。

 ▲ 大手口前の石塁跡。平成元年(1989)から本格的な発掘調査が開始され、現在では見事な石垣遺構が復元されている。
▲ 城内に入るにはこの大手門口に設けられた受付で入山料を納めなければならない。

▲ 受付を通ると目の前に復元整備された大手道が真っ直ぐに伸びている。他の城郭には見られない光景である。

▲ 大手道の左右両側にはこれまた発掘整備された屋敷跡が階段状に並んでいる。それぞれ伝羽柴秀吉邸、伝前田利家邸、伝徳川家康邸などと名付けられている。

▲ 大手道を上がり詰めると道は左に折れてやがて伝織田信忠邸跡の前に出る。

▲ 伝信忠邸跡からさらに石段を上ると伝黒金門跡と呼ばれる枡形虎口に至る。

▲ 黒金門を過ぎるとこの風景である。今までは、安土城といえば必ず出てくるのがここを写した写真であった。

▲ 本丸に入る前に二の丸に立寄る。

▲ 二の丸には織田信長廟がある。まずは信長公に参拝する。

▲ そして本丸跡である。ここに建てられた御殿には天皇を迎え入れる「御幸の間」があったと言われる。

▲ いよいよ天主台に登る。

▲ 天主跡の礎石群。他の城は天守と書くが安土城のみは天主と書く。まさに天下を統べる主の居する所であったのだ。

▲ 天主跡から琵琶湖を望む。築城当時は湖面は眼下に迫っていた。

▲ 再び信忠邸前に戻り、右手西へ向かう。

▲ ハ見寺三重塔。

▲ ハ見寺跡。信長が自らの菩提寺にしたと伝わる。

▲ ハ見寺跡から西方を眺望。西の湖越しに秀吉が築いた八幡山城(矢印)が望見される。

▲ ハ見寺二王門を出て石段を下る。百々橋口道と呼ばれる登城道である。

▲ 百々橋口道は麓の手前で通行止めとなっている。有料化されたためであろうか。山腹の山道を周回して再び大手道の秀吉邸跡に出る。

▲ 県道2号線から城址駐車場に入る交差点に建つ安土城址の碑。

▲ 安土城近くの県立安土城考古博物館から眺めた安土山。
----備考----
訪問年月日 2012年9月15日
主要参考資料 「天下布武の城 安土城」
 ↑ 「名城物語 1 信長の城」他

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