平城宮
(へいじょうきゅう)

国指定特別史跡、世界遺産

            奈良県奈良市佐紀町     


▲平城宮は平城京の北端に造営されたもので内裏や役所など朝廷の諸施設が整えられた。
(写真・第一次大極殿)

奈良の都

飛鳥宮から藤原宮へと朝廷の宮都は中国式の碁盤目状の都城を模した条坊制へと発展した。それは天皇専制による中央集権国家の建設と同時に推進された。その政治体制の根幹となる大宝律令が完成したのが大宝元年(701)、藤原宮に於いてであった。文武天皇の御代である。

それから六年後の慶雲四年(707)、文武天皇が若くして崩御した。文武天皇の子の首(おびと)皇子は幼かったため、文武天皇の母が即位した。元明天皇で、推古、斉明、持統に続く史上四人目の女帝である。

この頃、新都の建設計画が議せられ、和銅元年(708)には元明天皇から遷都の詔が発せられた。新都建設が突貫工事ですすめられ、和銅三年(710)三月十日に遷都が実行された。平城遷都である。無論、平城京のすべてが完成した訳ではない。大極殿と内裏、役所(朝堂)が整備された程度で寺社や屋敷は段階的に造営されていったとみられている。

藤原京と平城京の大きな違いは内裏や役所などの宮殿の位置である。藤原京では宮殿が都の中央に置かれたが平城京では北端に置かれた。唐の都の長安に倣ったのである。

元明天皇の御代ではわが国最初の通貨である「和同開珎」の発行と天武天皇時代に始められた「古事記」の編纂が完成したことなどが知られている。

この当時の国政の推進者は藤原不比等である。不比等は中臣鎌足の次男で、壬申の乱以後の天武朝期では天智天皇派であった藤原氏(中臣氏)は不遇であったようだ。持統三年(689)、不比等は刑部省の判事に任ぜられたことが日本書紀に記されている。下級官僚からの出発であったが実務の手腕に優れた不比等は大宝律令の制定に大きく関与し、その後は平城遷都を主導して右大臣にまで上り詰めた。また娘を皇室に嫁がせ、外戚としての権勢を誇るに至る。

藤原不比等の男子、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の四人は不比等亡き後も政権を担って行くことになる。この四兄弟の系統がそれぞれ南家、北家、式家、京家として繁栄、藤原氏の全盛時代を築いて行くのである。

元明天皇は霊亀元年(715)、娘に譲位して元正天皇が即位した。養老四年(720)、「日本書紀」が完成、この年に藤原不比等が亡くなっている。

神亀元年(724)、聖武天皇が即位した。父は若くして崩御した文武天皇で、この時はまだ七歳であったため祖母である元明天皇が中継ぎとして即位したのであった。その後も伯母元正天皇が中継ぎの中継ぎとして即位した。母は藤原不比等の長女藤原宮子(みやこ)で、文武天皇の夫人である。そして皇后は光明皇后で不比等の娘であり宮子の異母妹である。不比等は外祖父であると共に義父であった。

この頃、天然痘が蔓延して多くの庶民が死に、政権中枢の藤原四兄弟までもが病死してしまった。こうした世情を憂えたのか聖武天皇は仏教に深く帰依したという。天平十三年(741)、聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺の建立の詔を発した。その総本山として天平十七年(745)に廬舎那仏(東大寺大仏)の造立がはじまり、天平勝宝四年(752)に開眼供養が行われた。

一方、聖武天皇は天平勝宝元年(749)に出家して娘に譲位、孝謙天皇(女帝)が即位した。そして孝謙天皇は天平宝字二年(758)に退位して淳仁天皇が即位した。淳仁天皇の即位には時の権力者藤原仲麻呂(恵美押勝)の力が大きく働いていた。仲麻呂は藤原南家武智麻呂の次男で博識聡明にして昇進を重ね、太政大臣にまで上り詰めた。

しかし、退位した孝謙上皇と側近道鏡は対立する仲麻呂を反乱に追い込み、滅ぼしてしまったのである。仲麻呂の傀儡であった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位を宣告され淡路へ配流、後に暗殺されたようである。天平宝字八年(764)のことである。

こうして孝謙上皇が再び即位した。称徳天皇である。称徳天皇は寵愛する道鏡を太政大臣に任じて国政を進めた。当然、僧である道鏡に対する反感はいうまでもなく、称徳天皇の崩御(770)とともに朝廷から排除されることになる。

次に即位したのが光仁天皇である。彼もまた朝廷内における派閥抗争を背景にして即位した天皇である。政情は安定せず、呪詛事件や天変地異が続き天応元年(781)に病を得て崩御、長子の桓武天皇が即位した。

桓武天皇は即位三年にして平城京から長岡京を造営して移った。延暦三年(784)のことである。強大化した奈良仏教寺院の権勢やその呪縛から逃れるためであったとも言われている。そして延暦十三年(794)には平安京へ遷都することになる。

中央集権の律令国家の体制が平城京において完成したが、その後は藤原氏の政争の場と化し、天皇専制も形骸化してしまった。平城京七十余年の歴史は奈良時代というひとつの時代を画した。

現在、その奈良時代の息吹を残そうと復元整備事業が進められ、大極殿や朱雀門などが復元されている。


▲平城宮の入口である「朱雀門」。

▲大極殿の南門となる大極門。現在は門の東楼の復元工事中であった。

▲朱雀門ひろばに展示されている復元遣唐使船。

▲天平みはらし館から朱雀門を見る。

▲朱雀門。

▲朱雀門前の儀式の様子。

▲朱雀門内側から大極殿方向を見る。手前は大極門。とにかく広いのでレンタサイクルが便利である。

▲大極門。

▲大極門の説明板。

▲第一次大極殿。

▲大極殿中央の高御座。天皇の玉座である。
----備考----
訪問年月日 2022年12月7日
主要参考資料 「全現代語訳日本書紀」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ