いしぶたいこふん
(いしぶたいこふん)

                  奈良県高市郡明日香村           


▲ 円墳部の土が無くなり露出してしまった石室。総重量2000トン、花崗岩30数個と説明されている。

豪族の世紀、
       朝廷との確執

 この巨石の露出した古墳は蘇我馬子の墓ではないかと云われている。古くはこの石舞台周辺の地を桃原と呼んでおり、日本書紀には、推古天皇三十二年(624)に馬子を桃原墓(ももはらのはか)に葬るとあるからである。
 奈良時代に入る前の約百年間、つまり五世紀末の推古朝から平城京へ遷都した元明朝まで、いわゆる飛鳥時代は日本が歴史時代に入った時期でもある。崇仏派の蘇我氏と非仏派の物部氏の二大豪族による権力争いは、具体的な歴史として最初に見えてくるものである。
 この両豪族の争いは蘇我氏が勝利して朝廷との関係を不動のものとし、権勢を欲しいままにしてゆくことになる。まさに蘇我時代ともいうべき絶頂期を蘇我馬子が築いたのである。馬子の後、蘇我氏は蝦夷、入鹿と続くのである。

▲ 方墳部の角には石が貼り付けられていた名残りをとどめている。

▲ 石室内部へ続く羨道。中央の溝は排水溝である。
 その入鹿の専横ぶりは目にあまり、皇族の山背大兄王の館を軍勢で囲み死に追いやるほどであった。
 そんな蘇我氏の権勢も中大兄皇子、中臣鎌足らによってひっくり返されるのである。皇極天皇四年(645)、入鹿は中大兄皇子の手によって討たれ、一日にして蘇我氏は歴史の舞台から葬り去られてしまったのである。
 すべてはここ飛鳥の地で起きたことである。現在の、のどかな風景からはそのような激動の時代があったことなど想像することは難しい。ただ、この石舞台のみが当時の豪族たちの権勢を黙って伝えているかのようである。
 上円下方墳であるこの古墳の円墳部にあたる墳丘土はない。そして石室があらわとなり、その内部は空っぽである。蘇我氏滅亡後にあばかれたのであろうか。土は江戸期に開墾用に利用されて無くなったのだと云われている。
 狐が女に化けてこの石の上で舞ったという。石舞台の名の由来でもある。
 もしかすると、大豪族の末裔が遠い祖先の栄華を偲び、何かにとり憑かれたようにして舞っていたのかもしれない。

▲ 石室に安置されていたであろう石棺のレプリカ。

▲ ここに隣接する嶋宮遺跡は蘇我馬子の邸宅跡であったことが確認されており、発掘された桃の種からここに外来種の桃の果樹園があったと推測されている。桃原の地名の起こりであり、馬子の葬られた桃原墓がこの石舞台古墳であることは間違いないと思われる。
----備考----
画像の撮影時期*2006/11