牽牛子塚古墳
(けんごしづかこふん)

国指定史跡

            奈良県高市郡明日香村大字越    


▲牽牛子塚古墳は近年の発掘調査により斉明天皇の陵墓として有力視されている。
(写真・復元整備された牽牛子塚古墳)

激動の飛鳥を生きた斉明女帝

飛鳥時代の天皇陵は八角墳である。この牽牛子塚古墳も八角墳であり、古代この地は「越智岡(おちのおか)」と呼ばれていた。「日本書紀」には小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)が合葬されたとある。斉明天皇と間人皇女は母娘である。そして古墳調査時に新たに発見された越塚御門古墳がその位置関係から大田皇女(斉明天皇の孫)の墳墓ではないかとされた。

八角形、地名、合葬を証明する二つの石室そしてすぐ傍に造られた墳墓などからして牽牛子塚古墳は斉明天皇の陵墓であるとする説が有力となっている。

斉明天皇ははじめ舒明天皇の皇后であったが天皇崩御後、後継が決まらずにいたため皇極天皇として即位した。推古天皇以来二人目の女帝である。

皇極天皇の時代は何といっても豪族蘇我氏の全盛時代で、蘇我蝦夷、蘇我入鹿父子が国政を壟断していた。そうした豪族主導から天皇中心の体制を確立しようとしたのが中大兄皇子で、自らの手によって蘇我入鹿を誅殺し、蘇我氏を滅ぼしてしまった。乙巳(いっし)の変である。中大兄皇子は皇極天皇の子である。

皇極天皇は変の直後に退位して孝徳天皇が即位した。孝徳天皇は皇極天皇の同母弟であり、皇后は皇極天皇の娘間人皇女であった。天皇を補佐したのは言うまでもなく皇太子となった中大兄皇子と中臣鎌足で、彼らの改革によって律令体制への移行が進められて行く。大化の改新である。

しかし、孝徳天皇と中大兄皇子は仲違いしてしまう。中大兄皇子は遷都した難波宮から母(皇極天皇)と妹(皇后間人皇女)そして群臣を伴って飛鳥へ戻ってしまった。孝徳天皇は孤立、失意の内に崩御してしまう。

皇太子中大兄皇子は即位せず、母(先の皇極天皇)を再び天皇に即位(重祚/ちょうそ)させたのである。斉明天皇である。国政は中大兄皇子が主導した。国内的には蝦夷地を平定して国力を高め、対外的には朝鮮半島への軍事介入が実行された。そして飛鳥宮周辺の大規模な土木工事が続けられ、石を運ぶために掘った溝(運河/堀)は「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」と民衆から非難されたという。

斉明天皇の晩年には百済の滅亡とその救援のための出兵があった。中大兄皇子、そして斉明天皇みずから北九州へ前進して戦争の準備にあたったが、その最中に斉明天皇は崩御(661)してしまう。その後、日本軍は朝鮮に渡り、白村江の戦(663)で唐と新羅の連合軍に敗れてしまった。

飛鳥へ戻った中大兄皇子はすぐには即位せず、まずは斉明天皇の陵墓の建造にとりかかった。斉明天皇の崩御の四年後(665)、娘で孝徳天皇の皇后であった間人皇女が崩御。中大兄皇子は陵墓の石室を二つにして建造を進めたものと思われる。

斉明天皇崩御から六年後(667)、陵墓が完成して斉明天皇と間人皇女が合葬された。そしてこの年に薨去した中大兄皇子の娘で大海人皇子の妃であった大田皇女が陵墓の前に葬られた。

合葬の翌年(668)、中大兄皇子は即位して近江に遷都した。天智天皇である。

現在、牽牛子塚古墳と越塚御門古墳は古墳保護のための復元整備が実施され、建造当時の姿を私たちに見せている。あたかも古代日本の物語の一端を伝えるかのように。


▲古墳保護のための復元整備された牽牛子塚古墳。2022年3月から一般公開された。

▲牽牛子塚古墳に併設された越塚御門古墳。

▲国指定史跡の碑。

▲古墳を目指して坂道を登る。

▲飛鳥期の天皇陵であることを示す八角墳である。

▲石室入口。

▲入口から見た石室。石室はひとつの巨岩をくり抜いて造られている。

▲石室自体の見学は予約制で有料である。

▲牽牛子塚古墳の斜め下方に新たに発見された越塚御門古墳。

▲越塚御門古墳石室入口。

▲越塚御門古墳(手前)と牽牛子塚古墳。
----備考----
訪問年月日 2022年12月6日
主要参考資料 「全現代語訳日本書紀」他

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