郡山城
(こおりやまじょう)

県指定史跡、続百名城

             奈良県大和郡山市城内町      


▲ 昭和61年に再建された追手向櫓と追手門。安芸国毛利氏の
  郡山城との混同を避けるためか大和郡山城と呼ばれることが多い。

大和一統の城

 郡山城が城郭として本格的に築城整備されるのは天正八年(1580)に筒井順慶が城主となってからである。つまり、それまでの松永久秀が信貴山城に滅び、大和国人衆の支持を集めた順慶が織田信長に認められて大和一国を任されたことにはじまるのである。この時、信長は大和国内の諸城全てを破却して一城とすべしと命じ、順慶はそれまでの筒井城を捨ててここ郡山を本拠地としたのである。

 それまでの大和は興福寺系(筒井氏、古市氏など)と春日社系(越智氏、十市氏など)の国人土豪が互いに離合集散して争い、まとまることがなかった。そこへ松永久秀゛による大和支配が進んだのである。久秀はいち早く織田信長に服属して大和の支配を推し進めたのであったが、ご存知のように後に信長に盾突いて滅んでしまったのである。

 久秀に替わって信長の信任を得た順慶は明智光秀の属将として大和の国人衆を束ね、本拠地としての郡山城の築城を急いだ。

 築城にあたって光秀の助言によったのであろうか、石垣の石材には社寺の礎石や五輪塔、石地蔵などが徴発され、利用されている。光秀の福知山城にもこうした石材が多用されている。無論、その背景には信長による古い勢力を叩き壊すという強い意志がはたらいていたことは云うまでもない。

 天正十年、明智光秀は本能寺に信長を討った。光秀にとって順慶は最もあてにしていた武将である。山崎に羽柴秀吉を迎え撃とうとした時、味方として馳せ参じて来るものと洞ヶ峠で順慶の到着を心待ちに待った。
 順慶は、
「出陣の支度整い次第に馳せ参じる所存」
 と返事はしたものの、郡山城から動かなかったのである。

 光秀は失意と落胆のなかで滅んだ。

 戦後、順慶は秀吉の叱責を受けたが大和一国は安堵された。大和の平安こそが順慶にとって第一であったのである。天正十二年八月十一日、持病(胃の病)が悪化して城中で没した。享年三十六歳の働き盛りであった。

 順慶の後は従弟の定次が継いだ。しかし、定次は伊賀上野二十万石(上野城)に転封となり、郡山城を出ることになった。

 戦国動乱の大和をまとめた筒井氏も豊臣政権下においては否やは許されなかったのである。

 天正十三年九月、郡山城には秀吉の異父弟豊臣秀長が五千の将士を率いて入城した。

 秀長は大和、和泉、紀伊三ヶ国百万石の太守であり、天正十五年には大納言に任ぜられている。当然、その居城となった郡山城もそれに相応しく増改築が施され、城下町の建設にも拍車がかかったことは云うまでもない。石材転用の規模も順慶の比ではなかった。夥しい量の寺院などの礎石、墓石、石仏などが容赦もなく石組みの中に組み込まれた。順慶の築いた天守閣も建て替えようと取り壊したのであるが、なぜか再建されることはなかった。

 入城から六年後、秀長は天正十九年一月二十二日城内にて病没した。享年五十二歳であった。

 秀長には嗣子がなく甥の秀保が養子となって後を継いだ。しかし生来の暴慢が祟って文禄四年(1595)、十津川湯にて横死した。

 同年七月、増田長盛が二十万石で入城した。長盛は郡山城の修築を引き継ぎ、総仕上げともいうべき惣堀の普請を実施した。順慶から実に二十年の歳月をもって郡山城の威容がこの時に完成したといえる。

 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦に際し、長盛は西軍に付いたために城を徳川家康に明け渡すことになった。そして郡山城はなんと廃城とされたのである。

 しかし大坂の陣後、再び郡山城が復活する日がきた。

 元和元年(1615)七月、大坂夏の陣の功労者水野勝成が六万石で入った。この時、城内のほとんどが田畑と化していたという。勝成は二の丸、三の丸、本丸御殿などを復旧した。

 続いて藩主となった松平忠明(奥平信昌の四男)も諸城門、二の丸館などを造営して城の体裁を取り戻した。

 その後、本多政勝(本多忠勝の孫)が城主となり七代続いた(途中、延宝七年(1679)から貞享二年(1685)は松平信之が入部した)。本多家は七代忠烈(ただつら)で断絶した。

 続いて享保九年(1724)に柳沢吉里が十五万石で入城して六代続き、明治を迎えた。吉里は五代将軍綱吉の側用人で老中格となった吉保の嫡子である。

 廃藩置県後の明治六年(1873)、郡山城は売却処分されて解体された。


▲ 本丸北側の石垣と天守台。石垣には石仏などの転用石材が多く組み込まれている。

▲ 昭和58年再建の追手門。柳沢吉里が城主となった時に前任地であった甲府城内で使われていた名称を流用して「梅林門」と名付けられた。

▲ 追手門は豊臣秀長当時のものを再現しており、豊臣家の家紋である五七桐が金色に輝いている。

▲ 本丸天守台跡。

▲ 天守台北側にはいつの頃からか多くの石仏が集められている。石垣に組み込まれた多くの墓石や地蔵石を弔うかのように。

▲ 天守台上の記念碑。

▲ 本丸と毘沙門曲輪を隔てる堀。

▲ 柳沢吉保公を祀る本丸跡の柳澤神社。

▲ 城内に開設された柳澤文庫。最後の藩主柳沢保申(やすのぶ)の嗣子保恵(やすとし)が明治35年に自邸の一部を開放し、郷土の教育振興のために書籍などを公開した。その後、廃止されていたものを昭和35年に有志ならびに柳沢保承(やすつぐ)氏によって現在地に再興された。現在は史料、蔵書などの他に文化財の展示・公開の場にもなっている。
----備考----
訪問年月日 2006年11月18日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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